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週末読書メモ49. 『戦争と平和(後半)』

(北海道十勝の農家6代目による週次の読書メモ)

大作。生きている間に読めたことの有り難さすら感じるような物語でした。


前回に続き、ルイ・トルストイの巨作『戦争と平和』の後半部分。

紛れもない天才であるトルストイが、表現したいものを書き尽くしたような迫力があります。

「戦争」、「平和」、「歴史」、「人」、「愛」。様々な壮大な概念について描き、一つの物語としてまとめ切ったことには、感嘆の念を覚えます。

どのテーマに対する考察も、非常に示唆が富む中で、個人的に最も印象深かったのは、「歴史」と「人」についての洞察です。

我々、後世の者にとってはつまり、歴史家ではなく、探求の過程にのめり込んでいないので、常識をくもらせずに事件を冷静に省察している者にとっては、その原因が無数に浮かんでくる。原因の探究を深めるほど、ますます多くの原因が明るみに出て来る。そしてすべてが、個々別々に取り上げた原因も、いくつかの一連の原因も、それ自体としてはどれもこれも正当なものに思え、また、事件の巨大さにくらべると取るに足らぬものなので、どれもこれも本当の原因ではないようにも思え、また(ほかの複合した原因がかかわなければ)実際に生じた事件を引き起こすほどの力がないので、やはり本当の原因ではないようにも思える。

だれもが人間のなかには二面の生がある。その利害が抽象的であればあるほど、自由が多くなる個人的な生と、人間があらかじめ定められた法則を必然的に果たしている、不可抗力的な、群衆的な生である。
(中略)「皇帝の心は神の手にあり」
皇帝は ー 歴史の奴隷にほかならない。
歴史、つまり、人類の無意識的、全体的、群衆的な生は、皇帝たちの生活の一瞬一瞬をすべて、自分の目的のための手段として、自分のために利用する。
(中略)自分自身には自由なものに思える彼らの行動のひとつひとつが、歴史的な意味では不自由であり、歴史の過程全体との関連のなかにあり、永遠の昔から決定されているのである。

歴史学はその動きのなかで、たえず観察のために、次第次第に小さな単位を取り上げて行って、その方法で真理に近づこうとする。しかし、歴史が取り上げる部分がどんなに小さくても、ほかのものから切り離された単位を仮定すること、何かの現象の発端を仮定すること、すべての人間の気ままな意志が、一人の歴史的人物の行動に表現されていると仮定することは、それ自体が誤りだと、我々は感じる。
(中略)観察のために無限小の単位 ー 歴史の微分、つまり、人間たちの同質の欲求を認め、積分(この無限小の総和をとる)方法を会得したときにはじめて、我々は歴史の法則を把握する期待が持てるのだ。

"歴史(この世界)は、一人ひとりの人間の総和によって、形作られる”、とトルストイは主張します。

この主張は、カエサルやナポレオンのような一人の英雄の才能や意志によって歴史が変わり・作れられる、という当時の歴史観を否定したものでした。


一方で、これは、各人が当人の自由意志によって生きているのではなく、外界・時間・因果の三つに束縛されながら、その歴史の中の一片を担っているとも言います(それは、英雄から民衆まで全ての者が)。

人間の理性にとっては、さまざまな現象の総和は理解できないものだ。しかし、原因を突き止めたいという欲求は、人間の心に植えつけられている。そして、人間の理性は、さまざまな現象の条件が無数にあり、複雑であり、その現象のそれぞれが独立して、一つの原因をなすように見えることを、深く考えずに、最初のいちばんわかりやすい近接の物をとらえて、これこそが原因だ、と言う。
(中略)個々の歴史上の事件の本質、つまり、その事件にかかわった多数の人々の活動をよく考えて身さえすれば、歴史上の英雄の意志は大衆の行動を支配していないばかりでなく、自分の方がたえず支配されているということを確信するようになる。

天文学で新しい見方が「たしかに、我々は地球の運動を感じてはいない。しかし、地球は不動であることを認めると、我々はナンセンスに到達する。ところが、我々が感じていない運動を認めると、我々は法則に到達する」と言ったのと同じように、歴史でも新しい見方はこう言う。「たしかに、我々は自分の束縛を感じていないが、我々の自由を認めれば、ナンセンスに到達する。ところが、自分が外界、時間、因果に束縛されていることを認めれば、法則に到達する」

外界、時間、因果による束縛か…

これは、世界全体だけでなく、国家、組織、家族のどの単位でも言えることだと思われます。

様々な事象を観察する中で、明らかにある個人の意思・才能が、その世界や流れを変える・動かすことがあるもの事実。

しかしながら、それすら完全にその当人の自由意志のみに由来するかと言われれば、外界・時間・因果に影響を受けていることも真実だと。


他の方も言っていましたが、この見方というのは、「人は大河の一滴」という境地と似たものだと思われます。

※『大河の一滴(五木寛之)』
「人は大河の一滴」
それは小さな一滴の水の粒に過ぎないが、大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、永遠の時間に向かって動いていくリズムの一部なのだと、川の水を眺めながら私はごく自然にそう感じられるのだった。

人生は、世界は、自らの意志・努力・行動で動かしていける面があります。けれども、大きな視座・視野・視点から見れば、それすら大河の一滴でしか無いと。


3,000ページを越えるこの大作『戦争と平和』から得られたことが、あまり多過ぎて、自分の持つ言葉では表しきれません(名作と呼ばれるもの、歴史に残るものには、それ相応の価値があることを、再確認できました)。

※なお、この物語を知ると、今話題となっているロシアとウクライナによる紛争も、見え方が随分変わります。


ちなみに、『戦争と平和』は、サマレット・モームによる「世界の十代小説」にも含まれていました。

「世界の十代小説」
1. 『トム・ジョーンズ』フィールディング
2. 『高慢と偏見』オースティン
3. 『赤と黒』スタンダール
4. 『ゴリオ爺さん』バルザック
5. 『デイヴィッド・カパーフィールド』ディケンズ
6. 『ボヴァリー夫人』フロベール
7. 『白鯨』メルヴィル
8. 『嵐が丘』ブロンテ
9. 『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー
10. 『戦争と平和』トルストイ

来週読む予定の、この「世界の十代小説」にも含まれる、もう一人のロシアの異才ドストエフスキーは、どんな世界を読み手に見せてくれるのだろう。


【本の抜粋】
我々、後世の者にとってはつまり、歴史家ではなく、探求の過程にのめり込んでいないので、常識をくもらせずに事件を冷静に省察している者にとっては、その原因が無数に浮かんでくる。原因の探究を深めるほど、ますます多くの原因が明るみに出て来る。そしてすべてが、個々別々に取り上げた原因も、いくつかの一連の原因も、それ自体としてはどれもこれも正当なものに思え、また、事件の巨大さにくらべると取るに足らぬものなので、どれもこれも本当の原因ではないようにも思え、また(ほかの複合した原因がかかわなければ)実際に生じた事件を引き起こすほどの力がないので、やはり本当の原因ではないようにも思える。

だれもが人間のなかには二面の生がある。その利害が抽象的であればあるほど、自由が多くなる個人的な生と、人間があらかじめ定められた法則を必然的に果たしている、不可抗力的な、群衆的な生である。
(中略)「皇帝の心は神の手にあり」
皇帝は ー 歴史の奴隷にほかならない。
歴史、つまり、人類の無意識的、全体的、群衆的な生は、皇帝たちの生活の一瞬一瞬をすべて、自分の目的のための手段として、自分のために利用する。
(中略)自分自身には自由なものに思える彼らの行動のひとつひとつが、歴史的な意味では不自由であり、歴史の過程全体との関連のなかにあり、永遠の昔から決定されているのである。

彼は自分の戦争体験から、このうえもなく慎重に熟慮された計画は実戦ではなんの意味も持たず(それは彼がアウステルリッツ遠征で見たとおりだ)、すべてを決めるのは、意外な、予知できない敵の動きにどう対応するかであり、すべてを決めるのは、実際の行動全体がどのように、だれによって動かされているかだ、という確信をすでに引き出していた。

すぐれた指し手は将棋に負けると、自分の敗戦は自分の間違った手のためだと心底から信じて、その間違いを序盤に見つけようとするものだが、一局全体を通じて、一手ごとに同じような間違いがあって、一手といえども完全なものはない、ということを忘れている。彼が気にしている間違いは、相手がそれに付け込んだからこそ、彼も気づいたのだ。これにくらべると、戦争というゲームは、どれほど複雑だろうか。それは一定の時代の条件のなかで、しかも、一人の意志が生命のない機械を支配しているのではなく、すべてのさまざまな自由意志の無数の絡み合いから生じるのだ。

歴史学はその動きのなかで、たえず観察のために、次第次第に小さな単位を取り上げて行って、その方法で真理に近づこうとする。しかし、歴史が取り上げる部分がどんなに小さくても、ほかのものから切り離された単位を仮定すること、何かの現象の発端を仮定すること、すべての人間の気ままな意志が、一人の歴史的人物の行動に表現されていると仮定することは、それ自体が誤りだと、我々は感じる。
(中略)観察のために無限小の単位 ー 歴史の微分、つまり、人間たちの同質の欲求を認め、積分(この無限小の総和をとる)方法を会得したときにはじめて、我々は歴史の法則を把握する期待が持てるのだ。

人間の理性にとっては、さまざまな現象の総和は理解できないものだ。しかし、原因を突き止めたいという欲求は、人間の心に植えつけられている。そして、人間の理性は、さまざまな現象の条件が無数にあり、複雑であり、その現象のそれぞれが独立して、一つの原因をなすように見えることを、深く考えずに、最初のいちばんわかりやすい近接の物をとらえて、これこそが原因だ、と言う。
(中略)個々の歴史上の事件の本質、つまり、その事件にかかわった多数の人々の活動をよく考えて身さえすれば、歴史上の英雄の意志は大衆の行動を支配していないばかりでなく、自分の方がたえず支配されているということを確信するようになる。

天文学で新しい見方が「たしかに、我々は地球の運動を感じてはいない。しかし、地球は不動であることを認めると、我々はナンセンスに到達する。ところが、我々が感じていない運動を認めると、我々は法則に到達する」と言ったのと同じように、歴史でも新しい見方はこう言う。「たしかに、我々は自分の束縛を感じていないが、我々の自由を認めれば、ナンセンスに到達する。ところが、自分が外界、時間、因果に束縛されていることを認めれば、法則に到達する」

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