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【ショートショート】新婚観戦

「何やってんだ!逃げろ!逃げきれ!」

「いいぞ!!させ!させさせ!」

「頼むぞ!抜け!抜いてくれよ!」

ほとんど絶叫に近い歓声とともに期待が飛び交い、会場は熱狂の渦に包まれている。

唾を撒き散らしながらいい大人が恥も外聞もなく己の欲望にしたがって叫び散らしている様子はどこかみっともなくはあるが、これほどまでに欲望に素直であるといっそ潔くもある。

これこそが本来あるべき人間の姿なのかもしれないと思いながら、俺も必死にエールを送る。

今日は大金を賭けたんだ。絶対に負けられない。

彼は手に汗握りながら、固唾を飲んでレースの行方を見守った。

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「ねえ、ハネムーンどこに行く?」

風呂上がりのパックをしながら、ミサトは思いついたように尋ねた。

ハネムーンか。彼はテーブルの上に雑に置かれたチラシの中から、埋もれていた雑誌を取り出し、パラパラめくりながら考えた。

ハネムーンといっても、新婚旅行のことではない。今のトレンドは、何と言っても「新婚観戦」だった。

新婚観戦は数年前から突然流行り始めた。旅行よりお金も手間もかからず、興奮も得られるということで若年層から人気が広がっていき、今や全国的なトレンドとなっている。

政府が推進したというのも大きかった。ハネムーンを新婚観戦にした夫婦は、観戦料・宿泊費・交通費だけでなく食費や土産代に至るまで補助金がもらえるというのだ。このように格安でハネムーンに行けるということも手伝い、新婚観戦は急速に人気を博した。

しがない販売員の彼としては当然海外などに行けるような資金もないため、できれば新婚観戦にしたかった。しかし、ミサトは許してくれるだろうか。毎日旅行雑誌を眺めるような女である。嫌な感じしかしなかった。

彼はひとまず知らないフリをして、かまをかけてみることにした。

「ハネムーンだけどさ、なんか今流行りのやつあるじゃん?なんだっけ、あの、ほら」

「ああ、新婚観戦?」

食いついた。その次の言葉を待つ。一瞬、緊張が走る。

「いいよね、あれ。安いし、楽しそうだし。私たちもそれにする?」

意外だった。こんなにあっさり承諾するとは。彼は念のためミサトに確認をした。

「そうそう、それそれ。そしたらそうする?え、でもミサト海外とかじゃなくていいの?」

「うーん、別にいっかなー。海外なんていつでもいけるし。新婚観戦は今しか行けないでしょ?」

よかった。ミサトも乗り気のようだ。これでお金を節約できる。

彼は思い通りに運んだことに安堵すると同時に、何だかすんなり行き過ぎているような気がして、胸がざわついた。しかし、そんな不安も具体的な計画の話に移った途端、どこかへ消えてしまった。

(*)

内装が思ったよりも綺麗だったので、彼はそっと胸を撫で下ろした。よかった。ミサトはどうにか機嫌を直してくれたようだ。

彼は車内販売の異常に硬いアイスクリームもちまちまつつきながら、横で子どものように目を輝かせるミサトを見て、政府に感謝した。

彼らの乗っている列車は新婚観戦専用車両である。通常であれば間違いなくファーストクラスのこの車両だが、新婚観戦プランに申し込んだ夫婦は半額で利用できるのだ。そんなことから、巷では新幹線ならぬ「新婚幹線」なんて言われているらしい。

とにかく、いい車両をとっておいてよかった。そのおかげでミサトの機嫌を取れているのだと考えると、我ながらナイスな選択だった。彼は満足げに一向に柔らかくならないアイスをつついた。

実は、彼らはあの後結局揉めたのだった。きっかけは「何を観戦するか」という話だった。ミサトはしきりにサッカーだの野球だのを見たいと言った。ただ、サッカーや野球といった人気競技は流石に高かった。

新婚観戦はいくつかプランがあるのだが、それは暗に人気順にA〜Eまで分けられていて、Aが一番高価なプランだった。サッカーや野球は勿論Aに入っていた。

彼はできるだけお金を節約したかったため、願わくばプランEがよかった。しかし、プランEには本当に見たことも聞いたこともないスポーツばかり並んでいる。いくつかは、かろうじて名前を知っているものがあったが、ルールとなると全く想像もつかず、プランEは流石に厳しいかと考えている矢先だった。あまりに見覚えのある二文字が目に飛び込んできたのだ。

競馬である。これしかない。彼は何としてでもミサトを納得させることを決めた。

案の定ミサトは駄々をこねた。当然といえば当然だ。折角のハネムーンが競馬観戦なんていいはずがない。こんなこと彼女の両親に知れたら勘当もんである。

それでも、彼は出来る限りの節約をしたかった。お金が必要だったのだ。だから、彼は必死の交渉をした。

ミサトはどんどん不機嫌になっていき、最後の方はほとんど発狂してたが、何とかオプションでホテルと新幹線の席のグレードをアップするということで落ち着いた。

今のところその作戦は功を奏しているようである。ホテルは恐らく大丈夫だろうから、彼の思惑は思い通りというわけだった。

ただ、一つ問題があった。彼はミサトを納得させるために、どうしても競馬がいいという理由を作らないといけなかった。そして、彼はその場の勢いに任せて言ってしまったのである。「Aにしないで浮いた分を倍にして、旅行に連れて行ってやる」と。

それだから彼は何としてでも勝たなければならなかった。万が一全部スリでもした場合のことなんか想像したくもなかった。

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思った通りホテルの雰囲気は抜群で、出てくる料理もびっくりするくらい美味しく、ミサトはすっかりご機嫌だった。

このままあの約束を忘れてくれるといいのに。そんな願いが頭から離れない。しかし、彼の願いはディナーのステーキを頬張りながら楽しそうに話すミサトの言葉によって無残に打ち砕かれた。

「明日、楽しみだね。ヒロくん言ったよね?私、競馬はよく分からないけど、必ず勝てるんでしょ?あー、楽しみだなー。ねえねえ、どこに旅行に行く?」

彼は頭を抱えたくなった。どうやらあの時の彼はその場を取り繕うことしか考えていなかったらしかった。今すぐにでもあの時に戻って自分をぶん殴ってやりたかった。必ず勝つ方法なんてあるわけないだろ。

でも、もちろんそんなこと言えるはずもなく、彼は冷や汗をだらだらと垂らしながら、「おう、絶対勝つぞ。どこ行きたいか考えとけよ。」だなんて適当なことを言って、また姑息にごまかすことしかできなかった。

その夜はまったく寝付けなかった。隣で一人お気楽に爆睡しているミサトを置き、彼は気晴らしに外を歩くことにした。ミサトに気づかれる訳にはいかない。彼はスマホだけを持って、そっとドアを開けた。

それから小一時間リフレッシュした後、部屋に戻ると溜まってた疲れがどっと押し寄せてきた。彼は明日から逃げるように布団に入り込み、このまま目が覚めなければいいのにと思いながら、目蓋を閉じた。

しかし、それは叶わなかった。明日は無情にもやってきた。彼は昨日のリフレッシュを思い出し、心を落ち着かせようとしたが、それはむしろ逆効果だった。

お金を失うわけにはいかない。何のために節約したと思ってるんだ。何としても勝つぞ。絶対にスるのだけは避けねば。

ミサトは能天気に鼻歌を歌いながら化粧をしている。その上機嫌さが、かえって悪い未来を恐ろしいものにするようで、それを振り払うように何度も頭をふったが、いくら頭を揺らしてもその予感は脳の奥底に沈んでいくだけだった。

ミサトの準備も終わり、二人は会場に向かった。会場は見たところ普通の競馬場である。信じられないくらい多くの人が観客席にごった返している。しかし、二人の席はそこにはなかった。

新婚観戦の夫婦は追加料金を支払えば、二階の室内に位置するVIP席を指定できるのだった。彼はミサトのご機嫌とりのためもちろんVIP席を指定した。

VIP席自体はやけに豪華だというわけではなかったが、食事が出た。食事はまたステーキだった。昨日のホテルに比べると肉が赤い。

ミサトはナイフとフォークを丁寧に扱って、上品ぶっていた。実際の作法からすれば、あまりにもデタラメで彼は恥ずかしい思いをしたが、ミサトが満足げな様子だったので、彼はあえて何も言わなかった。

二人が食事を半分ほど食べた時、レースは始まった。

(*)

遂にこの時がやってきてしまった。次が最終レースだ。それまでの四レースは全部スってしまった。もう、浮いた差分なんかとうに使い切っている。それどころか新婚観戦の予算も全て使い切ってしまった。

でも、ミサトにはバレていない。ミサトは何も知らないのだ。今はもう大勝ちしてるもんだと思っている。彼も何とかそういう風に振る舞っているが、それも限界に近かった。

次がラストチャンス。ミサトを納得させるにはもうこの道しか残されていなかった。彼は口座にある全貯金を賭け、三連単を狙った。

これが失敗したら終わりだ。ハネムーン破産。笑えてくる。でも、これが当たれば?大金持ちどころの話じゃない。思い出せ。お前は金が必要なんだろ。何としてでも勝たなければならないんだ。勝つ。絶対に勝つぞ。

彼は願掛けにその予想を書いたメッセージの送信ボタンを押した。

「スタート」

一斉に馬が走り出す。同時に怒号のような歓声が会場に響き渡る。なりふり構ってはいられない。

「一番!!いけ!!いいぞ!そのまま!そのまま!させ!!」

いいぞ。彼の予想は一、三、九の三連単だった。一位、二位は予想通り。あとは、九番がくれば。

「いけ!抜け!おい!九番!頼むよ!こっちは人生かかってんだよ!!おい!いけ!」

九番が上がってくる。よしいいぞ。あとは直線だけだ。抜ける。

彼の胸は今までにないほど弾んだ。もう大金は目の前だった。彼は勝ちを確信し、興奮気味に叫んだ。

「いいぞ!いいぞ!そのまま!そのまま!頼む!九番逃げろ!」

その時だった。三番手につけていた六番が転倒したのだ。

嘘だろ。おい。

未来が崩れていく音がした。

六番を抜かしにかかっていた九番は巻き添えをくらい転倒した。その後ろもどんどん倒れ、結局、三番手に着いたのは大穴の十二番だった。

この瞬間、彼の全財産が賭けられた馬券は紙切れと化した。彼は無一文になったのだった。

破産。その二文字が現実のものとして彼にのしかかる。しかし、彼の本当の絶望は他のところにあった。

「ねえ、どうだった?」

ミサトが声をかけてくる。彼にはもう言葉がなかった。ミサトは執拗に彼を問い詰める。そして、彼の持っていた馬券を全て取り上げ、換金所に持って行ってしまった。それを止める気力すらもう彼には残されていなかった。

ミサトが帰ってくる。彼はもうその顔を見れなかった。ミサトのメイクは崩れていた。もう見た目では誰だかさっぱり分からなかった。

ただ、甲高いヒステリックな怒号がVIP席内に響く。その音は彼が常日頃聞き慣れた音だった。もはや何を言っているのかよく聞き取れなかったが、ミサトは泣き喚きながら彼に罵詈雑言を浴びせているようだった。彼は俯いて「ごめん、ごめん」と呟くしかできなかった。

ミサトは彼をひっぱたいた。それからまた反対の手でひっぱたいた。そして彼の襟首を掴んで地面に叩きつけた。彼は無抵抗だった。それは無抵抗が故の悲劇だった。

彼が地面に倒れたその時、彼のポケットからスマホが飛び出たのである。彼は急いでそれを拾おうとした。しかし、遅かった。彼の手が届くより早く、ミサトの手がスマホに伸びた。

ミサトはスマホを取り上げると、絶句した。そこには夥しいほどの着信があった。その全てに、「ミカちゃん」と書いてあった。すると、また「ミカちゃん」からの着信があった。ミサトはためらいなく応答ボタンを押した。

「ヒーくん!ねえ!どういうこと?絶対勝つって言ったじゃない!昨日の夜も信じてたのに。だから、あたしいいよっていったのよ。お金くれるっていうから、許したの。アンタもう一文無しなんでしょ?信じらんない。金のないアンタなんかゴキブリ以下のクズよ。最低。もう二度と私の前に現れないで。お店も出禁にしておくから。じゃあね、サヨナラ。」

ヒステリックな女の金切り声が嵐のように去り、その空間には静けさだけが残った。彼の顔からは一切の血の気が引いていた。その血は全てミサトに吸われたかのように、彼女の顔は彼とは対照的に真っ赤に染まっていた。

ミサトは窓際にのそのそと歩いた。そして、テーブルに手を伸ばした。

「お、おい。嘘だろ。おい。考え直せ。な?いいから、話せば分かるよ。ミサト。おい、冷静なれよ。」

彼はうろたえた。それもそのはずだった。ミサトの手には鈍く光るナイフが握られていた。

ミサトは歪んだ笑いを浮かべながら、ゆっくり彼に近づいてくる。彼はじりじり後ずさりするしかなかった。そして彼は気づいた。後ろが壁だということに。

「お、おい。ミサト、やめてくれ。俺が、悪かったよ。なあ、今まで二人で幸せだったじゃないか。ほら、やり直そうぜ。俺らならきっとできると思うんだ。謝るから、俺も改心するからさ、だから、頼むよ。ミサト。ミサト!」

ミサトは止まらなかった。彼の軽薄な言葉は生まれつきのものだった。それはいつまでも宙に浮いて飛んでいってしまうものだった。だから、今回もミサトに届く前にどこかに行ってしまったみたいだった。

ああ、もう駄目だ。彼は諦めた。ミサトを諦めた。彼は無我夢中で走り出した。彼がその先どうなるかは、誰にも分からなかった。

(*)

「何やってんだ!逃げろ!逃げきれ!」

「いいぞ!!刺せ!刺せ刺せ!」

大人たちの汚い願望が、これでもかというほどの大声で喚き散らされている。

どう見ても高級なスーツを見にまとった紳士たちが、画面に向かって血相を変え、汚い言葉で叫んでいる様子は何度見ても慣れないものだった。

画面の向こうでは、男がナイフを持った女から必死に逃げていた。

男がつまずいて転ぶ。会場の半数が荒ぶる。女が男に馬乗りになった。会場の熱気はピークに達した。次の瞬間、女が男を刺した。

「頼むぞ!抜け!抜いてくれよ!」

そんな声が聞こえてくる。きっと新婦に賭けてたんだな。

彼もそうだった。頼むぞ。そのまま抜いてくれよ。あわよくば———ここまで考えた時、彼は自分の気持ちを抑えきれなかった。

「いいぞ!抜け!抜け!抜いた!!!よしっ!また刺せ!何回も刺せよ!」

女は何度も男を刺した。もともと赤かった絨毯はさらに赤黒く滲んでいく。男はしばらくジタバタしていたが、すぐにパタっと動かなくなった。

よかった。勝った。彼は予想が当たって安堵した。

危なかった。新郎が逃げた時にはどうなるかと思った。今回は一億もかけたからな。負けたら大損だ。

賭けに勝ってほっとしている彼に、さっき新婦に「抜いてくれよ!」と声援を送っていた男が声をかけてきた。

「その様子ですと、あなたも新婦に賭けてたようですね」

「ええ、おかげさまで。一億も賭けてたもんで、新郎が逃げた時ひやひやしましたよ」

「おや、一億。お若いのに、勝負師ですねえ。ちなみに私は五億賭けましたよ」

「五億?すごいなあ。僕もいつかそれくらい賭けたいものです。一生かけてたどり着いてみせますよ。」

「はっはっはっ、素晴らしい心がけで。きっとあなたは本当に生涯やり続けるのでしょうね」

「ええ、もうこれなしじゃ生きていけないですよ」

「いやはや、やっぱり暇つぶしは『新婚観戦』に限りますな」

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