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【エッセイ】自己に関する省察

人が自己のままに生きることのできる場所はそう多くない。殆ど全ての場所で誰もが社会的役割を生きている。

仕事場では勿論のこと、家庭や友人間でさえも人は生き方を変える。いわば、私たちはその場にふさわしい自分を"演じ"ているのである。

そう考えると自己を生きる事は非常に困難だとわかる。ひょっとすると、素の自分だと思っている人格ですら、薄く仮面に覆われているかもしれないのだ。そのことに気づかずに一生を終える人はごまんといるだろう。

かくいう私も社会的役割をとっぱらった本当の「私」というものを確信を持って描出することはできない。仮に思い当たるそれが私の自己だとしても、今の私にはそれが思い込みである可能性を捨てきれないからである。

このように人が自己のままに生きるのは殆ど不可能に近いのである。それでも、人々はまだ見ぬ自己を追い求め、奔走し、疲弊していく。そして、その努力は多く徒労に終わってしまう。

しかし、これで終わってしまってはあまりにも希望がない気もする。私たちは一生の間、「自分」というものを演じ続けなければならないのだろうか。本当に自己のままに生きることは不可能なのか。

ここで考えてみよう。自己のままに生きることの意味を。その価値を。

近代、アイデンティティは人々の大きな関心事であり、生死を左右する重大な問題であった。現代、差別は薄まり、大衆化は佳境を迎え、この傾向はますます加速、拡大している。

自己が自己であること。唯一の自己であること。偽りのない自己であること。多くの人がこうした理想を掲げ、日々を喘いでいる。

しかし、私は問いたい。その理想に価値はあるのか、と。

理想はどこまでも理想に過ぎない。決して辿り着くことはできない。その上、アイデンティティという理想は輪郭のぼやけた、解のない問題である。いくら核に近づこうと、決して正解を得ることはないのだ。

私は再び問いたい。その努力に価値はあるのか、と。

言うまでもないが、人は人の中でしか生きられない。どこに生きようと、どれだけ孤立しようと、人はどこまでも社会的存在である。どれだけ足掻こうが、自らに社会が役割を与えようとするのを食い止める術はない。

私たちはこの事を自覚することから始めねばならないのである。この自覚が私たちをアイデンティティという幻想から、自己という呪縛から解放する。

私たちには定まった固有の自己は存在しない。しかし、それがたとえ偽りであろうとも、現実には自分が存在している。

繰り返そう。

私たちには定まった固有の自己は存在しない。しかし、社会的役割を演じている自己、それら全てが紛れもなく自己の実存なのである。

私たちは幻想の世界に生きることは出来ない。現実に生きるほかない。

現実に腰を据えて、偽りの自己を統合し、実存を生きる。

それが今の私たちが目指すべき生き方ではないかと私は思うのである。

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