見出し画像

【ショートショート】七色の宝物

透き通った快晴の下、庭の木の深緑の葉がみずみずしく輝いている。けれど、風が涼しくそよぐような爽やかさはなく、太陽が容赦なくじりじりと照りつけからっと暑い、夏の日だった。

庭で水遊びをしながら騒ぎ立てる子どもたちを横目に、私は母親の遺品を整理しながら、ふと目に止まった絹織の着物を広げて眺めていた。

なんと鮮やかな色だろう。柄は一般平凡、特に今売られているものとは変わらないけれど、発色は現在のものなんかとは比べ物にならないくらい美しい気がした。

見ているだけで力がみなぎってくるような赤、疲弊する心を暖かく包んでくれるようなだいだい、落ち込む気持ちを明るく元気づけてくれる黄色、自然の中にいるようでリフレッシュを与えてくれる緑、昂る心を鎮めてくれる青、深い悲しみにも寄り添ってそのまま吸収してくれそうな藍色、そして何よりも高貴に凛とたたずむ紫。

七色のそれぞれがうまく調和していて、みんないきいきとしている。見ているだけで心が満たされていく感覚。この着物にはそんな不思議な力があった。

これは昔、母の成人に合わせて、近所の染物屋さんで買ったものだった。私の成人の頃にはもうなくなってしまっていたけれど、母はその染物屋さんをとても気に入っていて、しきりに「ゆうこの成人式は絶対浅井さんのところで買うわよ。あそこの染物が一番なんだから。それまでに一杯お金を貯めておかなくちゃ。」と言って、毎日節約に励んでいた。

それ故に、浅井さんが経営難で店をたたんでしまったことを知ると、母はひどく悲しんだ。私は母よりだいぶ大きく育ってしまったので、成人式にはこの着物を着ることができなかった。

仕方なく、私はそれなりの着物を買ったけれど、母はどうにも納得のいかない様子で、私も母の着物を見ているからか、それなりにいいもののはずなんだけど、どこかチープに感じてしまったものだ。まあ、同窓会の二次会で盛大にワインをこぼしたような私にはあんないいものは似合わなかったのだけれど。

そんなこともあって、母はもう二度と手に入らないこの着物を家宝のごとく大事にしていた。だから、この着物は私にとっても思い出深い母の形見なのだった。

懐かしいなと思いつつ、丁寧に着物を畳む。ひっくり返してみても、すみずみまで美しかった。まるで色が生きているような、はたまた光がそのまま染めつけられているかのような、そんな鮮やかな色だった。

私はぴっちりと畳まれた着物を眺めながら、その色にひきつけられるように、昔のことを思い出した。

(*)

小さい頃、私は浅井さんのお家を訪ねたことがある。学校の校外学習の一環で、五人一組のグループになって地域のお店に職場体験に行く機会があり、私たちのグループは浅井さんの染物屋さんにお邪魔することになったのだった。

私は母の着物をもっと小さい頃から見ているだけに、ワクワクが止まらなかった。前日の夜は、興奮して眠れないのは当然で、眠そうにしている母親を付き合わせて、夜中まで目を輝かせてどれだけ楽しみにしているかということを語っているほどだった。

まあ、結局話し疲れてコテンと寝てしまったので、次の日ははっきりと目が冴えていた。私は前日の興奮をそのまま持ち越したように、元気いっぱいに家を出た。同じ班の子たちも、私ほどではなかったがみんな楽しそうで、夜はあまり眠れなかったというような話をしていた。

全体説明も終わり、遂に浅井さんの家に向かうことになった。歩きながらの道中も、私の胸はずっとドキドキしていた。どうやったらあんな綺麗に作れるんだろうとか、出来立ての染物はやっぱりすごく綺麗なのかなとか、そんなことを考えていると子どもには長い道のりもあっという間に感じた。

インターホンを押すと、ガラガラと引き戸を開けて、ニコニコと笑いながら浅井さんが出てきた。私たちが、みんなで元気よく「こんにちは!七森小学校から職場体験に来ました!よろしくお願いします!」と挨拶すると、浅井さんはさらにニコニコしながら優しい声で、「いらっしゃい。よく来たね。さあ、中にお入り。」と言って、私たちを招いてくれた。

浅井さんはそのまま作業場に私たちを連れて行き、職場体験をさせてくれた。私たちが体験したのは、織物を染料につけて染めるという工程だった。

浅井さんのはからいで、手ぬぐい好きな模様に染めてよいということで、みんな喜んで作業をした。さらにそれを持ち帰っていいということで、みんないっそう作業に励んだ。

自分の考えた模様に布を染めるのはとても楽しくて、作業は案外早く終わってしまった。男の子たちは余った時間は遊びたいと言っていたが、私はどうしても心残りがあった。

染物体験は楽しかったし、出来た染物はやっぱり信じられないくらい美しかった。模様はそりゃ子どもの考えたものだから拙かったけど、どれも一級品のように見えるくらい鮮やかだった。それだけに、私はどうしてもこの染料が一体何なのかということが知りたくなってしまったのだった。

そんな私の気配を察したのか、浅井さんはもじもじしている私に話しかけてくれた。

「ゆうちゃん、どうしたんだい?」

「えっと、あの、えっと」

私がまだもじもじしているのを見ても、浅井さんはそれを急かすようなことはせず、私が話し終えるのを待ってくれた。

「私、ここの染物が好きで、あの、色が好きなんです。だから、その色がどうやってできているのか知りたいなって。ごめんなさい。」

浅井さんは少し困った顔をした気がした。でも、申し訳なさそうに縮こまる私を見て、すぐにいつものニコニコした顔で、「あやまることないよ。」と言って、「どうしようかなあ」と時計を見た後、「よしっ」と呟いた。

「じゃあ、みんなもう少し見学していくかい?」

浅井さんがそう言うと、遊びたがってた男の子たちも一転目を輝かせて、うなずいた。私もとんでもなく嬉しくて、何度もうなずいた。後で聞いた話だと、どうやらそれどころじゃなくて、あちこち飛び回って叫び散らしていたらしいけど、覚えてはいない。とにかく、この目であの素晴らしい色の謎を見ることができるのだと思うと信じられないくらい嬉しかった。

浅井さんについていくと、そこは地下室だった。なんだか少しひんやりする空気に、私たちはそれまでとは違うものを感じて、緊張した。いよいよ、部屋の前に着くと、そこには何重にもロックのかけられた重厚な扉があった。

「ねえー、ここなんなのー?」

一人の男の子が無邪気に質問すると、浅井さんは「ここにはね、色のもとがあるんだ」と答えて、鍵を次々に開けていった。あと少し、あと少しであの美しい色の原料が見られるんだ。そう思うと、ドキドキが止まらなくて胸が張り裂けそうだった。浅井さんは遂に鍵を開け終わり、その重々しい扉を開けた。

部屋の中には壁に沿って大きなラックが立てられていて、その棚には透明な瓶がずらーっと並んでいた。それだけなら大したことないけれど、私はひどく驚いてしまった。

「こ、これって」

声を震わす私に浅井さんは言った。

「そう。これはね、虹だよ」

そのまさかだった。ずらっと並んだ瓶には小さな虹が入っていたのである。混乱する私たちを浅井さんは部屋の中に入れ、扉を閉めた。そして、「あそこで染料を作ってるんだ」と部屋の奥の方を指差した。部屋の奥にはもう一つ大きな扉があった。

「ここにある虹を向こうの部屋で加工して、染料にするんだよ」

浅井さんは優しくそう言うと、奥の扉の鍵をカチッと開けた。そして、「これはね、きぎょうひみつなんだ」と言って人差し指を口に当てた。

「本当は誰にも見せちゃいけないんだけどね、でも、今日は特別だよ。その代わり、誰にも言わないと約束してくれるかい?」

私たちはみんなで目くばせしてうなずき、「はい!言いません!」と約束した。浅井さんは「ありがとう」と笑ってくれた。

そして、最後の確認として、浅井さんは私たちに「びっくりしちゃうから耳をふさいでね」と言い、ゆっくり重い扉を開けた。

私たちは言われるがまま耳を塞ぎその部屋に入った。その時だった。

バンッ!ボンッ!ドーン!

色んなところから大きな爆発音が聞こえてきた。女の子も男の子も、その大きな音を怖がって目をつむり、悲鳴をあげている。すっかり怯えてしまった私たちを落ち着かせようと、浅井さんが爆発音に負けない大きな声で「みんな、大丈夫だよ!目を開けてごらん!怖くないから!」と呼びかけてくれた。

私たちは恐る恐る目を開けて、部屋を見回した。よく見てみると、さっき瓶に入っていた瓶の中で虹が爆発して粉々になって器械に注がれている。

「これはね、虹のかけらなんだよ」

浅井さんはそう言って、どうやって虹を捕まえるのかとか、どうやって爆発させるのかとか、かけらをどうやって染料にするのかとか、限られた時間でたくさん説明してくれたけど、難しすぎてもうほとんど忘れてしまった。

というより、その話を聞いているだけの余裕が無かったんだと思う。虹は弾ける瞬間、この世のものとは思えないほど美しい、鮮やかな光を放った。そして、弾けたかけらは瓶の中で解放されたかのようにいきいきと光り輝き、器械に入れられていく。

かけらは器械で色分けされた後、それぞれ鍋で煮込まれ染料に溶かされた。その染料はまるで色の始まりかのような神秘さを持っていた。これがあの着物を作るんだなと思うと、理由は分からないけど、何だか自然と涙が溢れ出てきた。

私たちがその様子に見とれている間も、浅井さんは熱心に話をしてくれた。音が漏れないように、しっかりと二重の扉を閉め地下室を出た時、浅井さんは「みんなが目を輝かせて聞いてくれるからついついいっぱい話しちゃったよ。でもね、今日話したことは内緒だよ。五人だけの秘密にしておいてね。」と念押しをした。けれども、それは杞憂だった。私たちは虹に夢中で、誰も浅井さんの話をちゃんと聞いてなかったから。

浅井さんは最後まで優しかった。手ぬぐいはもう乾いていた。私たちは自分で染めた手ぬぐいを片手に興奮冷めやらぬまま帰途についた。浅井さんは見えなくなるまで私たちを見送ってくれた。浅井さんの振る手ぬぐいは、何だか前よりずっと鮮やかに見えた気がした。

(*)

懐かしい思い出だ。結局、あの後私は浅井さんの言いつけを思いっきり破って、家族に虹のことを話した。でも、当然だが大人は誰も信じてくれなかったし、なぜか私もそれでいいと思っていた。きっと私の中にもどこか現実ではない夢のような感覚があったのだと思う。

ただ、確かにあれは現実離れした光景だったし、浅井さんの話はもうほとんど覚えていないけれど、あの、虹が弾けた瞬間のこの世の物とは思えないくらい鮮やかな光は今でも私の目に焼き付いている。もう確認のしようはないんだけれど、あれは決して妄想なんかではなかったと思う。

はじめ浅井さんは経営難で店をたたんだと言ったけれど、それはきっと表面上の嘘だ。私には分かる。さっき浅井さんの話を聞いてもいなかったし、覚えてもいないと言ったけれど、私は一つだけ浅井さんの話を覚えているのだ。

浅井さんは染料になる虹の話をする時、こう言った。

「虹はね、何でもいいわけじゃないんだ。いい染料はいい虹から生まれる。そして、いい虹はいい空気から生まれる。いい空気はいい自然から生まれる。いいかい、これは染物だけの話じゃないよ。だからね、僕らは自然を大切にしていかないといけないんだ。絶対に、感謝を忘れちゃあ、ダメなんだよ。」

この言葉を思い出すと、やっぱりあれは経営難なんかじゃないという思いが強くなる。第一、あんな素晴らしいものを作るところがそんな理由でなくなっていいはずがない。

いい虹が取れなくなったのだ。人間はあれからどんどん横着になった。自らの生活ばかりを大切に、目先のものに惑わされて、本当に大切なものを見失ってしまった。自然は綻び、空気は汚れ、虹は霞み、光を失った。だから、浅井さんは染料を作れなくなって、店をたたむしかなかったんだと思う。

私たちはもう止まることができないんだろう。きっとこれからも、私たちの知らないところで本当に大切なものは蔑ろにされて消えていくのかもしれない。ならせめて、目に見える大切なものだけでも、守らなければならない。

私は着物が傷つかないように丁寧に箱にしまって庭に出た。水やりをしていたはずの子どもたちは、ホースを向け合って水遊びをしている。

「ほーら、二人とも風邪引くよ」

私の注意とともに、私の存在に気づいたのか、二人はキャッキャと喜び、私に向けて水をかけてくる。

「やったなー!」

私は縁側に置いてあった霧吹きを持って、二人を追いかける。二人はホースを手放して、面白そうに逃げ回る。

投げ出されたホースは、シャワー口を空に向けて勢いよく水を放っていた。何にも遮られることのない太陽が、力強くそれを照らす。

二人を捕まえて顔を上げた時、小さな虹が二つできていた。

私はうんと手を伸ばしてみて、虹を掬うふりをした。でも、もちろん虹は掴めない。その隙に、二人は勢いよく駆け出し、虹をまたいだ。

私は苦笑しながら、逃げる二人を追いかけた。そして、目の前に何よりも鮮やかに輝く二つの虹を守り抜こうと決意した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?