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【エッセイ】性悪説

僕は馴れ合いが嫌いだ。その中にいると、なんとなく気持ち悪くて、頭の中がぼうっとしてきて、その集団の意志みたいなものに操られて、何処かへ連れていかれそうで。

でも、どうして、嫌いなんだろう。考えてみると、なんだかよくわからなかった。

その集団の人はみんな僕のことが好きなように振舞ってくれるし、僕はその中で一般的に振る舞っていれば、あまり不利益を被ることはない。確かに、好都合だし、理想的な居場所かもしれない。

でも、それは依存でしかないから、なんだか薄いカルピスのような味気ないコミュニケーションに感じられて、僕は満たされないのである。

そういう人は多分、いっぱいいる。僕の他にも、腐るほどいる。でも、そんな奴らは大抵、馴れ合いを褒め合うことくらいに思っていて、チンケなプライドでそれを避けようとして、悪口だけが飛び交うような、そんなしょうもないコミュニケーションをする。

僕は、それが最も汚い馴れ合いだってことに気づかないってなんて愚かな人たちなんだろう、と思ってアメリカのパウンドケーキを食べた時のようにますます気分が悪くなっていく。

でも、そんな訳で馴れ合いが嫌いかというと、それがどうにもしっくりこない。

ぼうっと考えているうちに、ふわっと新たな考えが浮かんだ。

僕は、人は悪いものだと思っている。性悪説というやつだ。だから、僕は人間なんてみんな嫌いだ。等しく、みーんな嫌いだ。

でも、人が嫌いだから群れたくないという訳でもない。

むしろ僕は全員嫌いだからこそ、特別だれかを贔屓したくないのである。

馴れ合いって好きもの同士だから、そこに好きじゃないものを入れたくないという力学が働きがちで、でもその中にいる人たちは自分がよければいいと持っていて、そのことに目は向けないし、なんなら自分は正しいとまで思っていそうで、そんな善意の裏に隠された排他的な悪意には誰も気づいてないように、誰もが自己実現を目指している。

甚だ気持ちが悪い。

そんな気持ちの悪い行為が、その雰囲気が僕は嫌いだったんだなあ。

でも、確かに僕は嫌いだけれど、彼らがいけないとは思っていない。むしろ彼らは人間臭いじゃあないか。本当に、どうしようもなく人間だ。

僕は人間が傷つくのはあまり好きじゃない。いくら嫌いな虫でも、それらが死んでいくのを見るのは気持ちのいいことではないでしょう?それと同じで、僕は人間に傷ついて欲しいとは思ってないのです。

みんな傷つかなければいい。だから、馴れ合いなんてなくなればいい。どうやら、僕は、倒錯した博愛主義者だったらしい。

まあ、別に人間を守りたいという気持ちなんかさらさらなく、僕に染み付いた道徳が傷つかないために、僕のいる空間でそういうことが起こってほしくないという保身に過ぎないのだけれど。

つまるところ、僕は善人でイタいのである。なんなら、聖人になりたかった。でも、人間は悪だから、人間である僕は善人ではないのだろう。

僕は、昔から「僕以外の人間がみんな幸せになればいい」というような(バリエーションがいくつかあるけれど)、そのようなことを考えることがあった。

それはとんだ被虐趣味だとばかり思っていたけど、それだけではなかったらしい。

人間が全て悪人だとすれば、僕以外の人間が全て幸せになれば、不幸せな僕は唯一善人になるだろう。

そうして、僕は僕の善性を証明しようとしていたのだと思う。

まあ、そうなると、僕は人間ではないということになるんだけど、それはそれで日頃感じていたことでもあるから、ある意味正しいように思う。

こんな妄想をするとき、きっと僕はこんな不幸を飼い慣らして、一人取り残されたそんな「かあいそう」な自分に酔いたかったのだ。

そうでもしないと、耐えられない、そんな日々に逃避を。

鬱くしい逃避を。

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