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03.水雷屯(すいらいちゅん)【易経六十四卦】【易経六十四卦】

水雷屯(芽ばえ・盈ちる・生みの困難/雪の中の若芽・創業)


creation:創造/initial difficulty:初期の困難

事を始めんとするも、いまだその時期にあらず。 時期の到来を待つべし。忍耐と努力が成功の鍵なり。


盈天地之間者唯萬物。故受之以屯。屯者盈也。屯者物之始生也。(序卦伝)

天地の間に盈つる者は唯だ万物なり。故にこれを受くるにちゅんを以てす。 屯とはつるなり。屯とは物の始めて生ずるなり。


序掛伝では、天地の卦の次にこの卦が置かれる理由を、天地あって万物が生ずる、天地の間には万物が盈ちる。屯はえいであり、また物の始めて生ずることである、と説明しています。
屯は、物事が発展しにくく停滞している状態を指します。「屯」の字は、草木が初めて地上に芽を出すものの、まだ十分に成長しきれていない様子を表しています。草木が初めて芽生える際、内部には十分な成長力を備えていますが、まだ自由に伸びることができず、進展が困難な状況です。物事が初めて生じる際には、このような屯の苦しみが伴うものです。
あらゆる事象は、この屯難から始まります。したがって、この苦しみは誰もが必ず経験するものであり、これを避けては物事の創業は成し得ません。この屯難を乗り越えるためには、どのように対処すべきかを説いています。

物事を作り出していくときの悩みというか、その為に大変な苦労が重なるとき。 だから苦しいには違いないが、考えようによって将来は希望がはらんでいるともいえる。 運勢は弱くはないが方向の定まりにくい向きもあり、自分の意志をはっきりしないと優柔不断になって現状に振り回されてしまうことにもなりそう。 事の成り行きとしては渋滞したり、難航したりすることが多く、とかく不成立に終わりやすい。しっかりと目標を決めて物事に取り掛かること。 この卦は発明とか、新しい企画、発想にはよい意味があり、じっくり取り組めば行き先には必ず栄光が待ち受けているようだから、ある程度の苦しみは覚悟して辛抱に耐えていけば明るい見通しがあるというもの。

[嶋謙州]

「屯」は、「たむろする」と読みます。また物が伸び悩んでいる形です。六十四卦の中には「四大難卦」というのがありますが、これはその中の一つです。はっきりいってあまりよい卦ではありません。 しかし、この卦は、悩みの中にあっても希望を持って時を待つ、という意味があります。雪の中で、草木の芽が雪解けを待っているようなものです。だから、こういうときに、あわてて先を急ぐとせっかくの芽が晩霜とか、残雪とかにあって、一巻の終わりとなります。いますぐ進むべきときではないという教えなのです。 たとえば、会社でいうなら、創立早々という時期です。このときには、まず信頼のできる部下を、部課長として、各部に配属し、社内の整備にあたることが大切です。あせって仕事を進めれば、大敗をまねく結果となるでしょう。 この卦の時には、大きな目的や希望があっても、周囲の状況がすべて不利なときでおもうように進めませんが、けっして希望をすててはいけません。あなたの計画そのものは決して間違ってはいないのです。ただ、こういうときに、一人でことを起こすと、四方八方から攻撃を受け、袋叩きになりますから、後輩や友人の協力を求め、自我を出してはいけないということです。 とにかく多事多難のときですが、目先、半年間だけ、忍耐努力すれば、この悩みがが解けて必ず好天のチャンスをつかめましょう。早ければ四か月あたりに希望が出てきます。結婚を占った場合、これは行き悩む意味ですから、いますぐは結婚はできません。しかし、四か月から半年ほど待てば、その人とゴールインできるでしょう。

[黄小娥/易入門]

屯。元亨利貞。勿用有攸往。利建侯。

屯は、元いに亨る、貞しきに利あり。用て往くところあるなかれ。きみを建つるに利あり。


願い事は大いに叶う。正しい道を貫き続けることが重要。今は危険な時期なので、どこかへ移動しない方がいい。諸侯を立てて、自分の補佐役にすると良いだろう。

屯(とん・たむろ):
多くのものが集まりたむろする。
また、その場所/屯営・屯所・屯田兵・駐屯

「屯」とは滞るという意味である。本来は天上に鳴り響くはずの雷が、水に頭を抑えられて悶々としている姿なのだ。つまり、自分の情熱を思うように発揮できない状態と解釈すればよい。株には「底値鍛錬」という言葉があるが、人生でもそういう状態は間々あるのだ。 内卦を自分、外卦を相手と見る。この原理に従うと、こっちは雷の様に勢いよく動きたくてバタバタしているのだが、向こうが水のように冷淡、陰険で絶えず頭を抑えようとしている象なのである。ただ、幸いにこのような状態は長く続くものではない。この卦の説明にあるのは、自分の志なり、才能なりを認めてくれる人を見出して、努力を怠らなければ、遂には困難を突破して成功を収められるという意味にとってもいいだろう。

[高木彬光/易の効用]

屯の字形はΨと一から成り立ちます。Ψは草木の芽を表し、一は地面を示しています。草木の芽が地面を突き破って出たばかりの状態を表し、まだ成長していない形状です。したがって、屯の字には物事が始まるという意味が含まれています。また、芽が地面を突き破る際の困難さから「難しい」という意味も派生しています。序卦において「盈ちる」と解されるのは、芽が成長するための気力が充実しているからです。「屯積(ちゅんせき)」は「充実する」という意味を持ち、さらに困難から「とどまる」という意味も派生しています。駐屯や屯田の「屯」は、おそらく「充積」と「とどまる」という意味を含んでいるのでしょう。
卦の形に関して言えば、下卦は震で、その象は雷を表し、その徳は動きです。上卦は坎で、水、雨、雲を表し、その徳は陥や険です。震が坎に遭遇する、つまり動いていって険難に落ち込む形を示しています。乾坤二卦の次にあるということは、乾坤が初めて交わって物を生み出そうとするのがこの卦であることを示しています。生み出すことには険難(坎)が伴います。そのため、この卦を屯と名づけています。動き(震)がある点で、大いに通じる可能性がありますが、前方には険難があるため、正しい態度を堅持しなければなりません。軽率に前進することは避けるべきです。
筮してこの卦が出た場合、大いに通じ、正しい道を歩むことが良いとされますが、急いで進んではならないという判断になります。また初九は陽爻であり、群陰の下に位置しています。この卦の意義上の主体とも言えるものです。賢人が民心を得て君主になりうる象徴です。したがって、君主を新たに立てるべきかを占った場合、この卦が出れば吉とされます。この卦には元・亨・利・貞の四徳が揃っています。乾坤は最も良い卦であり、当然四徳が揃っていますが、それ以外で四徳が揃った卦は少ないため、これが揃えば非常にめでたい卦であると言えます。


屯。元亨利貞。:屯は進もうとするが容易ではなく、行き詰まることを意味します。しかし、この困難さは、新たな始まりや大きなプロジェクトを開始する際に避けられないものであり、それがあるからこそ、物事が完成し、大きなプロジェクトが成功します。この行き詰まることがなければ、物事は完成せず、大きなプロジェクトは成功しません。 屯難であって、容易に進むことができず、行き悩んでいるところに、元亨利貞の徳があるのです。
初めの屯難によって、『元』物事が始まり、『亨』その物事は十分に盛んに伸び、『利』その物事が各々よろしく便利をするところを得、『貞』その物事が正しくて堅固なる位地に安定することができるのです。
勿用有攸往。:今は屯難であり、先には険しい障害があるため、無謀に進むべきではありません。代わりに、正しい道を守り、落ち着いて待ち、慎重に進むべきです。
利建侯。:有能な道徳的な人物を指名し、彼を諸侯として立てることが望ましいです。


彖曰。屯剛柔始交而難生。動乎險中。大亨貞。雷雨之動滿盈。天造艸昧、宜建侯而不寧。

彖に曰く、屯は剛柔始めて交わって難生ず。険中に動く。元いに亨りて貞。雷雨の動くこと満ちてり。天造草昧てんぞうそうまいなり。よろしく候を建つべくしてやすしとせず。


【天造草昧】―天地創造万物生成の始まりという意味。 同時に生みの悩み、苦しみにも通じます。屯の締めくくりの言葉に、小貞吉、大貞凶―小貞はよろしい、大貞は凶であると書いてあります。 つまり天地万物創造の始まりの卦であるから、これを人間で申しますと赤ん坊であります。 だからそっとしておかなければなりません。あまり性急にやってはいけません。 赤ん坊の時から少年や青年のような育て方をしたら、これは間違いで時には死を招くこともありますから大貞は凶であります。 また、非常に苦難の最中に事業を始めたというようなときも、これは屯にあたります。 そこで、そっと育てなければなりません。あまり過大な注文をしたり、いろんなことに手をつけたりすると必ず失敗をする。だから屯難という熟語もあります。

[安岡正篤]

天造は天運や時運と同義です。草は草創を意味し、昧は蒙昧を指します。乾坤の二卦が純陽、純陰であるのに対して、屯の卦において初めて剛と柔が交わります。これにより創生の困難が生じます。
内卦が初めてと交わって形成されたもので、剛柔が初めて交わることを示しています。外卦は険、難を表すため、難が生じるのです。には動く意味がありますが、上に険があるため、険中に動くことを意味します。
このように苦難の時でありながら、大亨で貞である理由は何故でしょうか。それは陰陽が交わったばかりで十分に成長していないものの、その背後に雷と雨の動きが満ち溢れているからです。やがてそれは沛雨となり、万物が伸び伸びと生きる喜びを謳歌するでしょう。これが屯において大いに通じる徳がある理由です。そのため、艱難の中でも正を固守することで、大いに通じるのです。(以上、天地生々についての説明)
次に、人事に関して、屯の時は世が開けようとしているが、まだ草創の無智蒙昧の時期です。天下はなお不安定で、規律もまだ整っていません。この時こそ君主を立てるべき時であり、未だ安寧の時と見なすべきではありません。


象曰。雲雷屯。君子以經綸。

象に曰く、雲雷は屯なり。君子もって経綸けいりんす。


経綸とは、糸を紡ぐ作業を指します。経とは縦糸を引くことであり、綸とは糸を整えることを意味します。この意味から転じて、世の中を治め、秩序を築くことを指すようになりました。
を雨と呼ばず、雲と称したのは、まだ雨が降り始めていない状態を示しているからです。雲と雷が合わさって屯を形成します。これは天地が生まれ変わり、天下の草創の苦難の時を象徴しています。君子はこの卦の象意に従い、天下に秩序をもたらし、世の苦しみを解消するのです。


初九。磐桓。利居貞。利建侯。 象曰。雖磐桓、志行正也。以貴下賤、大得民也。

初九は、磐桓はんかんす。貞に居るに利あり。候を建つるに利あり。 象に曰く、磐桓すといえども、こころざし正を行なうなり。貴を以て賤に下る、大いに民を得るなり。


進もうとしても障害が多くて一歩も前進できない。強いて進もうと思えば、大敗をまねくということである。

[高木彬光/易の効用]

磐桓は前に進むのが困難で、ためらう様子を示します。初九は陽爻が一番下にあり、困難な時代の底辺に位置する人々を表します。この爻は下卦の一部で動の性質を持ち、上へと進もうとします。初九は六四と応じており、六四は上卦の一部であり、危険な陥穴を示します。
磐桓として、進むべきかどうか躊躇せざるを得ませんが、初九は陽爻が陽位にあり、正しい態度を保っています。これは「貞に居るに利あり」、すなわち正しい道を堅持するのが良いとの判断になります。初九は陽でありながら陰の下にへりくだっており、実力がありながら社会の底辺にいる存在です。そのため、民衆に親しまれ、やがては君主となるでしょう。


この初爻は、困難の中で動く卦を象徴し、成卦の主爻となるため、卦辞と同様の意味を持っています。『磐』は大きな石を、『垣』は強固な柱を指します。この爻は陽の性質を持ち、陽の位に正しく位置し、二つの陰の下に安定して存在します。このことを『磐垣』と表現します。
『貞に居るに利ろし』とは、屯の悩みの時期にあって、その状況を打開する力を持つ者が、内卦の震の動きやすい性質に流されることなく、磐垣のように静かに構えるべきであるという意味です。
『侯を建つるに利ろし』の「建てるべき侯」とは、この初爻を指しています。現在は屯難の時期であるため、軽率に動いて坎の困難に陥ることを避け、焦りや悶えることなく、泰然自若として磐垣のように構えているべきです。これは、完全に動かないという意味ではなく、陽位に陽として正しい志を持ち、その志を遂げるための心構えを持つことを意味しています。今すぐ行動に移すことはできないが、その志を忘れずにいるということです。


初九は陽爻であり、その剛強さと賢明さを兼ね備えた人物は、天下の困難を克服するための大きな力量を有しています。彼は磐石のように不動であり、大柱のごとく揺るぎない存在で、天下の困難に心を痛めるように見えますが、実際には動かないことが本意ではありません。彼は正しい道を進むことを志しています。初九の爻は、一つの陽爻が二つの陰爻の下にあるため、高貴な人物が身分の低い人々に謙虚に接することを示しています。初九は陽の剛健さを持ちながらも謙虚であり、道徳的な才能を備えつつ、低い身分の人々に対して謙虚に接しています。その結果、彼は天下の人々の心を大いに得ることができるのです。


六二。屯如邅如、乘馬班如。匪冦婚媾。女子貞不字。十年乃字。 象曰。六二之難。乘剛也。十年乃字。反常也。

六二は、屯如ちゅんじょたり。邅如てんじょたり。乗馬班如じょうばはんじょたり。あだするにあらず、婚媾こんこうせんとす。女子ていにしてせず。十年にしてすなわち字す。 象に曰く、六二の難は、剛に乗ればなり。十年にしてすなわち字するは、常に反るなり。


「屯如」とは行き悩むこと、「邅如」とは転進すること、「班如」とは半ば進み半ば退くことで、三度も同じような言葉を繰り返しているくらいだから、いかに困難な状態かわかるだろう。女だったら、自分の思う男とは、十年正式に結婚できないというのだから、どんなに情熱があったとしても、それは生きて来ないのである。

[高木彬光/易の効用]

『如』はごとし、しかるに同じく、上の字についての形容詞。『屯如』は困難なさま、『邅如』は行きつ戻りつするさまを意味します。乗馬の『乗』の音はshêngで、四頭立ての馬を指します。『班』はバラバラになることで、『左伝』では列を離れた馬を班馬と称しています。『媾』は会うこと、『あざな』は、許嫁いいなづけの意味を持ちます。
男性の元服(二十歳)が冠をかぶる儀式であるのに対し、女性はこうがいを髪に挿します。その際、本名とは別にあざなを付けてもらうのです。それが許嫁の時(十五歳)であるため、許嫁することを「字す」と言います。

※清の王引之は、許嫁して字するにしても、字が許嫁の意味にはならない、
古代に許嫁を字と呼ぶ例がないと言い、妊娠説を主張しています。
経文の原義としてはその方が良いかもしれません。
女子貞にしてはらまず。十年にしてすなわちはらむ。
右の通釈は朱子によっていますが、許嫁をはらむと置き換えても、大意は通じるでしょう。

六二は陰柔で、「中」を得(二は下卦の中)、「正」であり(陰爻陰位)、さらに上に九五の「応」があります(二と五、陰と陽で応じ合う)。当然、配偶者たる五に向かって進もうとするのですが、六二は初の剛に乗っており、これに付きまとわれて困難に直面します。故に、苦しみながらも突き進むのです。四頭立ての馬を鞭打っても、馬たちは各々の方向に向かい、うまく進みません。しかし、下の初九は六二に対して害を加えようとしているわけではありません。六二と結婚したがっているのです。
しかし、六二の女性は、本来九五の男性と結ばれるべきものであり(六二と九五は応じ合う)、正道を守って初九との結婚を許そうとはしません。十年が経つと波乱も収まり、横恋慕する初九は去り、本来の配偶である九五が手を差し伸べます。ここでようやく(=乃)六二は結婚を許します。
象伝には、常に反るというのは、六二と九五が結ばれるのが常道であり、今までの邪魔が消えて常道に戻ったということを意味します。この爻辞の象徴的な意味は、そのまま占う人への戒めとなります。


六三。即鹿无虞。惟入于林中。君子幾不如舎。往吝。 象曰。既鹿无虞。以從禽也。君子舍之往吝。窮也。

六三は、鹿にくになし、ただ林中に入る。君子ほとんど舎すつるに如かず。往けば吝。 象に曰く、鹿に即くに虞なし、きんに従うを以てなり。君子これをつ、往けば吝、窮するなり。

鹿を追いかけて案内もなく、山を見ないで、林の中に飛び込んでいった形なのだ。今までのことは眼をつぶって、全面退却を決意すべきである。それを思い切りが悪いと、今度の戦争でガダルカナルに、陸海軍が何度も小出しに兵力を注ぎ込んで、後の作戦に重大な支障を来したようなことが起こるのだ。株だろうが、恋愛だろうが、こんな時は眼をつぶって、すっぱり見切ってしまうべきである。

[高木彬光/易の効用]

『虞』は山林を管理する役人であり、君主が狩猟する際の道案内や勢子せこを務めます。吝は不吉な運で、悔と同程度のものですが、吝は吉から凶に向かう性質を持ちます。六三は柔でありながら剛の位にあり、陰爻は陰位に満足せず、欲を出して妄動しようとしますが、六三は不正であり不中であります。三に対応するのは上でありますが、上は三と同じく陰爻で応じてくれません。無闇に進むと困難に陥るでしょう。例えば、鹿を追うのに勢子がいないようなもので、鹿は捕まえられず、深い林の中に迷い込むだけであります。賢明な人は、おそらく鹿を捨てる方が良いでしょう。いつまでも追い続けると、行き詰まり、恥をかくばかりです。この爻が出た場合、占者への戒めと見るべきです。象伝では、「禽に従う」とは獲物を追いかけることを指します。


六四。乘馬班如。求婚媾。往吉。无不利。 象曰。求而往。明也。

六四は、乗馬班如《はんじょ》たり。婚媾こんこうを求む。往けば吉、利あらざるなし。 象に曰く、求めて往くは、明らかなるなり。

行き悩みの状態は同じだが、先はいくらか明るくなってきている。正しいことなら、どうにか通るような状態なのだ。例えば目下のために縁談を世話するような小さいな善行ならば進んで行ってもいいというのである。

[高木彬光/易の効用]

六四は本来、初九に「応」じている存在です。しかし、九五の君位に近い位置にあり、九五の剛に対して自らは柔の性質を持つため、その恩恵を受ける可能性もあります。このため志が揺らぎやすく、四頭の馬がばらばらの方向に走る様子を表しています。
とはいえ、初九は下位にあって正(爻陽位)を堅持しており、六四に「応」じています。まさにこれが、自分が結ばれるべき相手なのです。したがって、六四が初九という伴侶を求め、ともにこの困難(屯)の時期を乗り越えようと進むならば、吉であり、利益を得られるでしょう。占いでこの爻を得た場合、自分よりも下位にある結婚相手を探すことが吉とされます。象伝の「明也」は、その行動が賢明であることを示しています。


九五。屯其膏。小貞吉、大貞凶。 象曰。屯其膏。施未光也。

九五は、そのあぶらを屯す。小貞は吉。大貞は凶。 象に曰く、その膏を屯す、施しいまだおおいならざるなり。

例え正しいことを思い立っても小さいことなら何とか成就するだろうが、大事を企てては失敗すると思ってよい。膏雨とは地を潤す雨で一つのチャンスとみてよいが、一雨降りそうでなかなか降らない陰鬱きわまる天候をあらわす卦として、そこからすべてを類推していただきたい。

[高木彬光/易の効用]

『屯す』は、困難を動詞化したもので、出し惜しむことを意味します。膏は油を指し、そこから転じて恩恵を表します。例えば、膏沢こうたくとは、体内の脂が均等に行き渡り、体を温めたり、傷を塞いだりする働きを指します。しかし、屯すとは、そのような力が弱く、量も少なく、広がろうとしても一箇所に留まってしまい、行き渡らない状態を意味します。これは、国政に例えると、上層部が豊かでないために下層の貧困を救うことができず、恩恵を施せない状態です。
九五は陽剛の爻で「中」を得ており、さらに「正」(陽爻陽位)に位置していて、最も尊い地位にあります。しかし、時は屯す(=困難)の時期であり、険の中に陥っています。下には六二が本来の「応」(二と五は陰と陽で応)として応援していますが、二は陰柔であり力が弱く、困難を救うには不十分です。
初九は最下層にあって民心を得ており、民衆は皆これについてしまいました。九五はの中央の穴にはまり込んでおり、施すべき恩恵を持ちながらも、下に施すことができません。これを「その膏を屯す」と表現します。を筮してこの爻得た場合、小さな事であれば、正を守ればまだ吉ですが、大きな事であれば、正であっても凶を免れません。


上六。乘馬班如。泣血漣如。 象曰。泣血漣如。何可長也。

上六は、乗馬班如たり、泣血漣如きゅうけつれんじょたり。 象に曰く、泣血漣如たり、何ぞながかるべけんや。

苦労困難もその極に達し身動きも出来なくなって、血の涙を流している状態である。ただ、幸いにこの卦が出た時は悩みもそれほど長くはない。夜明けの前は、闇が一番濃い、という諺を思い出して、あとひと踏ん張りすべきである。

[高木彬光/易の効用]

上爻は陰柔な性質を持ち、屯(難)の窮極の時にあります。その地位は険の極点であり、下には応援がないため、進もうにも馬がばらばらになって進めません。憂い懼れて血の涙がとめどなく流れる状態です。このような状態では、身の安全が長く続くわけがありません。象伝においても、長続きしないことが示唆されています。
天下を救うという強い志を持ちながらも、自分には才能がなく支援者もいない状況で馬に乗り出し、すぐに落馬してしまう。挫けずに屯難を救いたいと思いつつも、実力不足で諦めて内に引き返し、血の涙を流して悔し涙を流しています。しかし、この状態では屯難を救うことはできません。どうにもならない究極の困難な状況にあります。まさに悩みの極みに立たされている者の姿です。
このように、陰柔で菲才、応援者もいない状態では、どれだけ強い志を持っていても前進することは難しく、結果的には身を破ることになるのです。


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