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04.山水蒙(さんすいもう)【易経六十四卦】【易経六十四卦】

山水蒙(おろかな者・啓蒙・教育/これから伸びる人)

education:教育/inexperience:未経験

前途見通しきかず、しかと判断し難し。家庭に悩みあるべし。 自己の考えに執着すべからず。上長の言葉を聞くべし。


物生必蒙。故受之以蒙。蒙者蒙也。物之穉也。(序卦伝)

物生ずれば必ずもう。故にこれを受くるに蒙を以てす。蒙とはくらきなり。物のおさなきなり。


蒙の字は、草に覆われて中が暗くなっているという形。蒙とは、くらい、理に明らかでないということ。
教育の卦:現在は蒙昧で知恵が明らかではないが、その暗くしているもの覆っているものを取り除けば本来の明らかな知恵が現れてくる。蒙昧を啓く道を説く。
教える人と教えられる人との関係:我が方から童蒙の啓発を求めて行くのではない。童蒙が我が方へ求めてくるものである。教えを求める側の自発性が重要である。自分から求めて行くのでないかぎり、それは押し付けとなり、蒙を啓く役にはたたない。

山の中に霧が立ち込めている感じで前方がはっきり見えない。 運勢は弱く、動きは鈍い。先の見通しが立たないときで下手に動けばとんだ落とし穴が目の前に待ち構えていることになる。 何の予備知識もなく、あてずっぽうや一人合点で行動を起こしがちだから注意せねばならぬ。 この卦は物を学んだり人を教え導いたりしする意味もあるので先行きが閉ざされ不安定な状態にある為、この際徹底的に自分の将来に役立つことを学んだり、教養や知識を身につけることは非常によいと云える。 前に進むのは無論差し控えねばならないが、どうしてもというなら目上や先輩にとくとアドバイスや指導を仰ぎ手探りで動くなら先ずは許されるだろう。

[嶋謙州]

蒙は人間でいえば赤子の時代を終え、児童少年の時代であります。それで童蒙という言葉があります。 この時代になるともう小貞ではいけません。そこで大象には果行育徳ということばを使っております。果は結果の果でありまして、きびきびした実践を表します。 つまり小学校時代になると、甘やかしてはいけません。きびきびと活動させて徳を育てなければいけません。 果という文字は面白い文字であります。果物でありますから、その栽培を考えるとよくわかる。果物は鈴なりにしておくといけません。必ず間引かなければなりません。鈴なりにしておくと木が弱ってしまう。従って果物も駄目になります。そこで適当に間引かなければならんのです。これを果決、あるいは果断という。花もそうであります。上手に摘花しなければ、よい花になりません。 しかし、この果断、摘花というものはたいへん難しく、時期を外したりやりそこなったりするととんでもないことになる。まして人間の教育は、その意味においてたいへん大事でありまして、難しい。これは果行によって徳を養うことができるので、少年時代はできるだけ雑駁にならぬよう引き締めて、きびきびと躾け、つまらぬものを省いてよい習慣生活、よい癖をつけるようにすること。これが蒙の卦の根本精神であります。 徳というものは、人間の本質的問題であります。人間には本質的要素と付属的要素があって、徳というものは、その本質的要素であります。これに対して知能とか才能というものは、付属的要素であります。 この知能、才能、あるいは技能というものは、なくてはならぬ大切なものであるけれども、人間の要素としては、派生的なもの、付属的なものであります。また、躾、習慣というものがありますが、これは、徳というものを育てるうえにおいて大切なものであり、本質的要素の中に入れるのが普通であります。これは、東洋人間学の基本的な問題のひとつでありますが、易は明確にそれを教えております。

[安岡正篤]

暗い家に住む子供。 「蒙」は、若すぎるとか、見定めがたいぼんやりしたという意味です。また「蒙」の字をごらんになればわかりますように、草かんむりに家です。縄文時代にあった地に穴を掘り、柱を立て、茅などで屋根を地面までもってきた、昔の家の形です。薄暗い中で、両親が小さな子供を育てているところです。 だから、この卦には、見定めがたいとか、若い、児童、これから伸びる人、という意味があります。なお「啓蒙」という言葉は、教育でその無知をひらくという意味ですが、もとはこの「易経」からでているのです。 ところで、「易経」の真価を認めている者は、けっして東洋人だけではありません。たとえば、ヘルマン・ヘッセは「ガラス玉遊戯(ガラス玉演戯)」の中で、「易経」を「人間最高の知恵」と呼んでいるのです。その中で「蒙」について触れています。 ヨーゼフ・クネヒトという青年が竹林の隠者の庵をたずねて、弟子になりたいと頼んだとき、隠者は彼にたずねます。 「君はここにとどまっている限り、従順を旨とし、鯉のように静かに身を持する覚悟があるか」 「あります」とクネヒトが答えると、隠者は 「よろしい。では筮竹をもって神託をうかがおう」といって、占いをはじめます。 「これは『蒙』。青年の愚かさをあらわす卦だ。上は山、下は水、山の下に泉の湧くのは青年の例えだ。 青年の愚かさは成就する。 私が若い愚か者を求めるのではなく、 若い愚かさがわたしを求めるのだ、 最初の神託で私は教示する 彼が再三尋ねるならわたしは煩わしい。煩わしければ、渡しは教示を与えない 辛抱強くしてこと進歩する。」 これはドイツ文の直訳ですが、「蒙」という卦の原文はこうなっています。 蒙は亨る。 われ童蒙に求むるにあらず。 童蒙のわれに求む。 初筮は告ぐ。 再三すれば瀆る。瀆るればすなわち告げず。貞に利し。 ヘッセのドイツ文は、よく『易経』の原文の意味を伝えています。クネヒトは、それから隠者に入門を許され、数か月竹林にとどまって、『易経』の六十四卦の書き写し、暗記します。それから古い注釈書を読み、一人の悟りを開いていくのです。 さて、この「蒙」の卦の運気は、はじめあまりよくありませんが、努力次第であとへ行くほど好転してきます。ただ、濃い霧の中を手探りで歩くようなものですから、いつ、何に躓くかわかりません。できるだけ身辺を整理して身軽になっているほうがいいのです。 事業関係では、内部関係が暗く、困難をはらんでいることが多いときです。若い方は前途おおいに有望ですが、あまり、今暴走すると、正面衝突の危険があります。 目先のことでは、見当はずれが多く、身の回り、日常のことでも、かなりあいまいな、わけのわからない出費があるでしょう。結婚は、今は決められません。まず見送ったほうが無難でしょう。この卦の場合、男性もあまり当たりが暗いので、誰かを頼りたいときです。だから、普通の結婚ではうまくいきませんが、いいパトロンでも見つければうまくいきます。 ただ、学問研究に関係のある人に、この卦が出たら、男女ともに大吉です。将来はかならず大物になれるでしょう。 また、たとえば、物をなくした場合、見つかりやすいところに置き忘れたときには、すぐに見つかるという卦が出るものです。盗まれたり、落としたりしたときには、長い間、見つからないという卦がでるものです。ただ、想像もしないようなところに、紛れ込んだような場合には、よくこの「蒙」がでるのです。

[黄小娥/易入門]

蒙。亨。匪我求童蒙。童蒙求我。初筮告。再三瀆。瀆則不告。利貞。

蒙は、亨る。我童蒙を求むるにあらず。童蒙来たりて我に求む。初筮は告ぐ。再三すればけがる。涜るれば告げず。貞しきに利あり。


初筮は告ぐ:学ぶ姿勢を占筮に喩え、占いで最初に出た答えが気に入らないからといって、二度三度と占えば答えは乱れ、正しく告げることはない。学ぶことも同じく、自分の気に入った教えしか受け入れなければ何も学ぶことはできず、進歩もないということ。
易占の場合、同じ問題に対して、二度三度も続けて占って、それで同じ解答が得られるものですか……というのは、私のよく浴びせられる質問だが、それに対する解答は、ちゃんとこの卦の説明のなかにでてくる。 山に霧がかかって、見通しのきかない状態。人間でいえば、まだ子供で智慧の発達していない状態、国でいうなら未開野蠻の状態である。
蒙古という名前も、むかしの中国人が、侮蔑の意味を込めて呼んだ言葉ではないかと私は考えている。 人が占いというものに頼りたくなる心境も、これにたとえていいだろう。 そのような場合、最初に出てくる解答がが一番正しく、二度三度やり直しては、正しい解答は得られないというのである。
占いを離れても「第一印象」という言葉もある。熟慮断行という言葉もあるが、人生という戦場では、それぞれが往々、熟慮不断行に陥って、あらたなチャンスを逸することも決して珍しくはないことなのだ。昔の名将が「一慮断行」という言葉を尊んだのは、ここに真意があるだろう。

[高木彬光/易の効用]

彖曰。蒙。山下有險。險而止蒙。蒙亨。以亨行時中也。匪我求童蒙。童蒙求我。志應也。初筮告。以剛中也。再三瀆。瀆則不告。瀆蒙也。蒙以養正。聖功也。

彖に曰く、蒙は、山の下にけんあり。険にしてとどまるは蒙なり。蒙亨るとは、亨を以て行きて時に中するなり。我童蒙を求むるにあらず、童蒙来りて我に求む、こころざし応ずるなり。初筮は告ぐ。剛中を以てなり。再三すれば涜る、涜るれば告げず、蒙を涜すなり。蒙を以て正を養う。聖の功なり。


上卦が艮の卦で山を象徴し、下卦が坎の卦で水を示します。この卦は、険しい場所に立ち止まり、進むことが困難な状況を示しています。これが『蒙』の状態です。
険しい道を進むためには、十分な準備が必要であり、その準備が整うまで、しばし立ち止まることが求められます。『蒙』が成り立つ理由は、師が正しい道を知り、弟子を導くからです。その際、過不足なく、適切な時にのみ教えを授けます。
師の教えは、弟子が願って初めて与えられるものであり、師が一方的に教えるのではありません。これは、『九二』の師の志と『六五』の弟子の志が完全に一致するからです。『九二』は剛中の徳を持ち、適切な教えを与えることができます。初めの師の言葉を疑い、再び問い、三度も問うような疑い深く誠意のない者は、道を汚すものであり、そのような者には教えは授けられません。童蒙を教えるには、必ず正しい道を示し、後に聖人となるための努力と工夫が必要です。


象曰。山下出泉蒙。君子以果行育徳。

象に曰く、山下に泉をいだすは蒙なり。君子以て行ないを果たし徳をやしなう。


山から湧き出たばかりの水の最初は細く弱いものですが、他の多くの流れを取り込み合流することで大きな川となり、最終的には大海に注ぎ込んでいきます。 同様に、早成を焦ることなく様々な物事を取り入れながら、学び進み続け行くならば、次第に蒙はひらかれ徳は育成されていくのです。


初六。發蒙。利用刑人。用説桎梏。以往吝。 象曰。利用刑人、以正法也。

発は啓と同じ。啓蒙の語源はここにある。桎は足かせ、梏は手かせ。説は脱と同音同義。

初六は、蒙をひらく。もって人を刑し、用て桎梏しっこくを説くに利あり。以て往けばりん。 象に曰く、用て人を刑するに利あり、用て法を正すなり。

相手が愚昧そのもののような存在では、刑罰というものを定めて、悪事を行わせないようにするしかないという思想なのだ。桎梏というのはいましめだが、刑罰そのものは手段であって、決して本来の目的ではないのだから、これを用いるのに度を過ごすと、かえって相手の反感を買うということである。

[高木彬光/易の効用]

蒙昧な人たちを教育するためには、まず厳重に規律を作り、それを明確に示して、教えに従わない場合は罰を与える必要があります。
あまりにも厳しい規律で童蒙がかわいそうだと思って、規律を捨て寛大になると童蒙はその寛大なことを良しとして放縦になり智能を啓くことができません。 啓蒙の最初の段階には、法を正すことが先ず必要であり、懲戒こそ法を正す手段になります。
時に刑罰を与えることあるのは小さく懲らしめて大いに戒めるためです。すなわち法度規律を厳正にするためです。


九二。包蒙、吉。納婦、吉。子克家。 象曰。子克家、剛柔接也。

九二は、蒙をぬ、吉なり。つまるるに吉なり。子、家をくす。 象に曰く、子、家を克くすとは、剛柔まじわるなり。

これは「女子と小人は養い難し」という言葉に対応するといってもよい。ご婦人の読者はこの言葉に腹をお立てになるかもしれないが。これは私の創作ではなく、孔子の言葉である。相手は、幼い弟なり妹なりのようなものだと思って、長男の気持ちで教え導けば、次第にわかってくれるという状態である。

[高木彬光/易の効用]

包は包容する意があります。すべての愚かな者を包容しなさい。そうすれば吉となります。妻を迎えるのに吉であり、子供が父親に代わって一家をよく治めるでしょう。
内卦は三であり、九二はその中で唯一の剛の存在です。九二は内卦の主であり、他のいくつかの陰を統治する役割を担い、蒙を啓発する責任を負います。治める相手は多岐にわたり、その性質もさまざまであるため、一律にこうでなければならないという規定はありません。しかし、九二の徳は剛毅であり、陽爻であって過激ではありません(二は内卦の中に位置しています)。そのため、蒙昧な者を包容することができるのです。
角度を変えて見れば、九二は六五と「応」じています。二は陽で夫に相当し、五は陰で妻にあたります。二が五を受け入れることで、婦を納れる象となります。婦人は蒙昧な存在であるため、婦を納れることは蒙を包容することになります。
家としてこの卦を見ると、五の位は父に相当し(二は臣位に由来します)、二の位は子にあたります。しかるに、五は闇弱で陰爻であるのに対し、二は剛明で陽爻です。したがって、二が五のすべき仕事を代行することになります。つまり、子が一家の責任を背負う象があるのです。
占いにおいてこの爻を得た場合、占う人にそのような徳が備わっていれば、さまざまなケースにおいて吉とされます。象伝の「剛柔接わる」とは、九二と六五の「応」を指しています。


六三。勿用取女。見金夫。不有躬。无攸利。 象曰。勿用取女。行不順也。

六三は、じょめとるに用うるなかれ。金夫きんぷを見て、たもたず。利するところなし。象に曰く、女を取るに用うるなかれとは、行いつつしまざればなり。

これは説明するまでもないくらいのもので、、たとえば「金色夜叉」の中の、ダイヤに眼のくらんだお宮のような相手なのだ。すっぱりあきらめた方がよいので、何もあなたが間寛一のように復讐の鬼と化し、黄金の亡者となる必要はないのである。あいつと結婚したところで、結局うまくいかないだろう。こっちはもっといい相手を探そうと考え直すほうがはるかに利口である。これは男でも女でも同じことなのだ。

[高木彬光/易の効用]

金夫は黄金を贈り、女性を誘惑する男性を指します。女性に例えるなら、金銭に目が眩み、自分を見失ってついていくような人です。嫁取りの占いでこの爻が出た場合、必ずこのような女性を妻に迎えることになるでしょう、れは決して良いことではありません。
正当な相手を捨て、金持ちで権勢のある男性に従おうとすることは、正しい道から外れる行為です。このような不貞で不義な女性を妻とすることは適切ではありません。また、陰湿で誠実さに欠け、無知な人々は、たとえ啓蒙の責任を持つ人々であっても教える価値がない場合があります。彼らが自らの過ちに気づき、悔い改めることを望むからです。


六四。困蒙。吝。 象曰。困蒙之吝。獨遠實也。

六四は、蒙にくるしむ、吝なり。 象に曰く、蒙に困しむの吝なるは、独りじつに遠ざかればなり。

これはまったく困った状態で、理屈で説得しても聞こうとせず、医者や薬の効能もない、不良少年のような段階なのである。自分を占って、こんな卦が出たならば、反省三省すべきである。かりに、今は人も「若気のあやまちだ」くらいに思ってくれたとしても、このままの状態では、次第に人が相手にしてくれなくなることは必定である。

[高木彬光/易の効用]

この卦のなかでは、九二爻のみが、剛健にして蒙を発く力を有しています。六四爻は、自身闇弱陰爻にて九二爻から最も遠く離れた存在です。初爻は六四を応援すべき立場にありますが、これまた陰爻にて蒙昧であり、助力となり得ません。そのため六四爻は蒙昧に苦しむことになり。
占う者においては、このような状況であれば恥ずべきことです。小象の実とは九二の陽剛を指しております。陽は積極、充実の原理であり、陰は消極、受容の原理です。故に陽を実、陰を虚と称するのです。爻の形においても、陽爻は充実し、陰爻は中が空虚となっております。なお実の古訓は「セン」で、前の順の古訓「川」、後の巽の古訓「選」と韻を踏んでおります。
六四の爻は一生蒙昧にして智慧が明らかに啓けることに至らず、困苦して羞ずべきものです。それは、この六四の陰爻が、充実した陽爻から遠く離れ、賢明にして教えを授けるべき師匠からも遠ざかっており、自らを教え導いてくれる人がいないためです。速やかに自身の境遇を一変させ、賢明なる先覚者に親しんで教えを受けるべき道を工夫すべきでしょう。


六五。童蒙。吉。 象曰。童蒙之吉。順以巽也。

六五は、童蒙、吉なり。 象に曰く、童蒙の吉なるは、じゅんにしてそんなればなり。

これは例えば、まだ年も行かないうちに、父親に死なれて、家を継いだ長男のような状態と解釈すればよい。「自分はまだ未熟者で……」と口先だけではなく、心から思って、先輩友人部下などの忠言をたえず聞き入れ、慎重な行動を続けながら、自分の修養完成に努力すべきだという状態なのだ。

[高木彬光/易の効用]

九二の剛健で賢明な師匠の教えを受けるべき理想的な童蒙です。教えを受ける主爻であり、六五は艮の卦の一爻であり、艮は少男であるから、童と見なされます。 陰爻であり、蒙昧であり、まだ智慧は啓かれていないが、柔順である。 陰爻をもって陽の位にあるため、正しい位を得ていないが、上の卦の真ん中に位置しているため、中庸の徳を持っています。このようにして、九二の先覚者に相応じているのです。 六五は柔順で尊い位にあるにもかかわらず、下の賢人に従うため、それが吉であるとされています。心が柔順であるのが、順であり、容貌態度の謙遜恭順であるのが巽です。


上九。撃蒙。不利爲冦。利禦冦。 象曰。利用禦寇。上下順也。

上九は、蒙を撃つ。寇《あだ》をなすに利ありからず、寇をふせぐに利あり。 象に曰く、以て寇を禦ぐに利あるは、上下じゅんなるなり。

あまりに激しく童蒙を攻撃したり、
あるいは烈しい刑罰を加えて童蒙の寇(敵・賊のこと)となってはならぬ。
童蒙に寇をなすところの外部の誘惑の類を禦ぎ止めて、
童蒙をして日々によい方に遷って行くように指導すべきである。

無知なる童蒙への指導が厳しすぎる。それは童蒙を攻撃することとなり良くない。指導者たるもの、外部の悪・攻撃から童蒙を守ってやるべきである。

[公田連太郎]

これは、天下にあいつぐらい、馬鹿な人間がいるだろうかと、頭から湯気を出してかんかんに怒っているような状態なのだ。といって、こっちが相手を責め立てると「馬鹿ほどこわいものはない」で、こっちが逆恨みされるから、「馬鹿と鋏は使いようで切れる」という諺を思い出して、ゆっくりと、事にあたるべきだというわけである。

[高木彬光/易の効用]

上九は剛陽爻であり、最上位に位置します。これは蒙昧を退けるための態度が過剰に剛直であることを意味します。そこで「蒙を撃つ」という表現が用いられました。しかし、人を攻撃することが過度になると、逆効果になることがあります。寇とは越境して攻撃することを意味し、王夫之によれば外部からの悪の誘惑を防ぎ、天性の純真を保つことが重要です。
象伝の意味するところは、剛直な態度で外部からの悪を防ぐことで、教える者も教えられる者も適切な状態を保てるということです。この爻辞はそのまま占者への戒めとして受け取るべきであり、教育の原理にとどまらず、すべての事象に適用されるでしょう。


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