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13.天火同人(てんかどうじん)【易経六十四卦】

天火同人(人を集める・人との調和/同行)


cooperation:共同/welcome:歓待,歓迎

胸襟を開いて努力すべし。運気盛大なり。 公明正大に同志と協調すべし。衆智を集めれば成就するを得ん。

物不可以終否。故受之以同人。(序卦伝)

物は以て否に終わるべからず。故にこれを受くるに同人を以てす。
同人とは人と同じくすること、人と協調すること。お互いに違う者同志が同じ方向に進もうと心を同じくし力を合わせることを同人という。しかし、附和雷同ではいけない。

運気は強く昇り坂で、何か物事に挑戦したくなるときと云える。 いわゆるツキ運の見えてくる時であるが、そうかと云ってベタぼれに突き進んで行くわけにも行かず、ここは一番協力者が欲しいときでもある。一人で事を起こしては、いくら好運であるからと云っても事が思うようにいかなかったりする。要するに負担が重くなって途中で投げ出したりするのが関の山というところである。 ところが何人かと共同して事を行えば、運勢に相乗作用が加えられて、なんともはや上手くスムーズに物事が運ぶことになる。ここは一番独走せず、賑やかに共同作戦と行こう。結婚なんかは共同の行為であり、心を一つにして未来に進む同人だから最高である。

[嶋謙州]

個人生活から次第に社会生活に進みますと、いろいろの意味で似たものが集まる。たとえば、同じ学校を出たとか、同じ職業に従事しておるとか、あるいは志を同じくするなどによって集まります。これが同人の卦であります。たがいに手を携えていくと、運が拓けてくるという意味であります。

[安岡正篤]

同人于野。亨。利渉大川。利君子貞。

人に同じうするにいてす。亨る。大川を渉るに利あり。君子の貞に利あり。


同人とは、共に歩む人々、すなわち和合し、同じ目的を持って会する人々の意を表します。「野」には多岐にわたる意味があります。漢語においては、政府機関外の民間部門全体を指すことがあり(在野・朝野)、また、都に対する田舎、保身に対する野心を意味します。他にも、野原や平野、隠し隔てのない公の場、日常から遠く離れた非日常的な場所、郊外よりもさらに遠く、世界の果てのような極地を指します。
五陽の中に一陰がある場合(六二)、それは君子の貞節と見なされます。在野の同志と共に行動する際は、広大な野原の真ん中に立つような、公明正大で公平な態度を保つべきです。そのような姿勢であれば、その志は天に通じ、大きな挑戦や冒険的な事業の遂行も可能となるのです。
ただし君子の道にかなうようにしてこその利益なのです。
吉田松陰草莽崛起 《そうもうくっき》   


彖曰。同人。柔得位得中而應乎乾。曰同人。(同人曰)同人于野。亨。利渉大川。乾行也。文明以健。中正而應。君子正也。唯君子爲能通天下之志。

彖に曰く、同人は、柔くらいを得ちゅうを得て乾に応ずるを、同人と曰う。同人野においてす、亨る、大川を渉るに利ありとは、乾のこうなり。文明は以てけん、中正にして応ず、君子の正なり。ただ君子のみく天下の志しを通ずと為す。


六二は柔和であり、正しい位置にあり、中庸を保ち、上の乾に応じています。この形を「同人」と呼びます。「同人野に于てす、亨る、大川を渉るに利あり」とあるのは、乾の働きです。文明の徳(離)と剛健(乾)を持つ下の六二と上の九五がともに中正の徳を備え、互いに呼応して志を同じくしています。これが君子の正道であり、天下の人々の志をよく通達させることができるのです。


象曰。天與火同人。君子以類族辯物。

象に曰く、天と火とは同人なり。君子以てぞくるいし物をべんず。


天(乾)と火(離)が揃うことで「同人」となります。天と火が共に上昇し調和するこの卦に従い、君子は同族を集め、異なるものを分別します。


初九。同人于門。无咎。 象曰。出門同人。又誰咎也。

初九は、人に同じうするに門においてす。咎なし。 象に曰く、門をいでて人に同じうす、また誰か咎めん。


協同の道を学び始める際の第一歩を、門の象徴を用いて示しています。この同人の初爻は陽爻であり、剛毅な性質を持ちながらも下位に位置しており、上に連なる相手がいません。師匠も存在しないため、引きこもってばかりでは物事は始まりません。自ら積極的に門を出て同人、すなわち他者と広く交際することで、過ちを犯すことはありません。


六二。同人于宗。吝。 象曰。同人于宗。吝道也。

六二は、人に同じうするにそうおいてす。りんなり。 象に曰く、人に同じうするに宗においてす、吝の道なり。


『宗』とは宗族を意味し、同じ血筋や親戚、同じ種族の仲間を指します。これは私的で親密な繋がりを持つ集団を表します。六二は九五と共に中正の位置にあり、互いに応じています。それにもかかわらず、自分の宗族である初九や九三とのみ同じ志を共有しようとするため、正しい道から逸れています。人と志を同じくし協力して物事を成し遂げるためには、公正で開かれた態度が必要です。
しかし、宗族内だけの交際や身びいき、同族以外を顧みない偏狭な態度では、決して物事を成し遂げることはできません。凶には至らずとも、称賛されるべき態度ではありません。占断としては、身内の者とだけ付き合っていると恥をかくことがあるでしょう。


九三。伏戎于莽。升其高陵。三歳不興。 象曰。伏戎于莽。敵剛也。三歳不興。安行也。

九三は、つわものもうふくし、その高陵にのぼる。三歳までおこさず。 象に曰く、戎を莽に伏するは、敵ごうなればなり。三歳まで興らず、いずくんぞ行かん。


この九三の爻辞には、一陰である六二を求めて互いに争う様子が描かれています。九三は六二と位置的に比の関係にあり、そのため特に六二を手に入れようとする意欲が強いのです。しかし六二にとっては、応じるべき相手は何と言っても九五に他なりません。九三は内卦離の極にあり、陽位に陽で存在しているため、非常に強い勢いを持っています。自らの欲望を達成するために、まず競争相手である九五を討とうとして兵を隠して待機させます(戎を莽に伏せ)。そして、九五の動向を探るために高い綾に登り敵の様子を窺います(其の高陵に升る)。しかし九五は六二の応爻であり、剛健中正であるため討つ機会がありません。このようにして三年が経過しても、なお兵を動かすことができないのです。おそらく最後まで行動を起こせずに終わるでしょう(三歳興らず)。このような不義な計略が成功するはずがありません。


九四。乘其墉。弗克攻。吉。 象曰。乘其墉。義弗克也。其吉則困而反則也。

九四は、そのように乗る。攻むるあたわず。吉なり。 象に曰く、その墉に乗る、義たたざるなり。その吉なるはくるしんでのりかえればなり。


墉とは垣根のことであり、家と家を隔てる役割を果たします。九四は剛健でありながら中正ではなく、九三と同様に、六二の陰を自分のものにしようとする野心を持った乱暴者です。初九が応じないため、陰爻である六二に目を向けますが、九三が垣根のように立ちはだかります。そこで九四は垣根を乗り越え、九五を攻めようと試みます。
しかし、九四は剛爻でありながら柔位に位置しているため、柔軟性があります。垣根を乗り越えることはできたものの、攻撃には至りません。これは、力が足りないからではありません。六二の正応である剛健中正の九五を討とうとしているため、そもそも正義の行いではないのです。道理として勝てないことが分かっているからです(攻むる克わず)。
それでは、なぜこれが吉となるのでしょうか。それは、成就しないことを早く悟り、深入りせずに危機を回避するという良心の苦悩を経て、正道に戻ることができたからです。


九五。同人先號咷而後笑。大師克相遇。 象曰。同人之先。以中直也。大師相遇。言相克也。

九五は、人に同じうするに、さきにはさけよばいて後には笑う。大師だいしちて相い遇う。 象に曰く、同人のさきは、中直ちゅうちょくなるを以てなり。大師相い遇うは、相い克つを言うなり。


號咷ごうとうとは、極度に泣き叫ぶことを指し、深い悲嘆を表現する言葉です。大師とは大軍のことであり、2500人の兵士を率いる師団長を意味します。
九五は剛で「中正」であり、六二は柔で「中正」です。これらの二つは「応」の関係にあります。九五と六二の間には、己の野望を遂げようとする九三と九四が存在し、彼らは兵を草むらに伏せたり、隙あらば横取りしようと形勢をうかがっています。
人が同じ目的を持ちながらも先に叫び呼ぶのは、自身が中正であり、道理がこちらにあるため、悲憤に堪えきれず泣き叫ぶのです。大軍を相い遇うというのは、こちらに理があるからこそ、相手(九三と九四)に勝利することを意味します。手強い相手にやっとの思いで勝利し、最終的には笑顔を取り戻すのです。


上九。同人于郊。无悔。 象曰。同人于郊。志未得也。

上九は、人に同じうするに郊においてす。悔なし。 象に曰く、人に同じうするに郊においてす、志しいまだ得ざるなり。


上九は、人と同じくすることの終わりであり、志すところに執着しない境地に達した状態を表しています。
同人の卦において、五つの陽爻は皆、陰である六二と同じくしようと努めています。初九と九三は六二の比爻であり、九五は六二の正応です。九四は応でも比でもありませんが、中間の爻の位置にあるため、一度は心が動かされます。しかし、この上九だけは応でも比でもなく、遠く離れて淡々とした境地にあります。
上九は卦の最も外側に位置しており、内に応ずるものがありません(三は上に応じるべき位置ですが、両方とも陽爻で応じません)。誰もこれに同じるものがいないため、郊で同人するということになります。国外を郊といい、つまり都の外を指します。
掛辞の野(郊外)ほど遠くはありませんが、辺鄙であるため、人と会同することが不可能です。それならば、卦辞の野に同人するのはますます悪いように見えますが、意味の取り方が違います。卦の場合は広大無私を意味し、この「郊に同人す」は、会うべき相手がいないことを意味します。
このように孤立した状態は不吉なように思えますが、上九は自分から人に遠ざかっています。人が自分に同じてくれなくても、もともと覚悟していることです。かえって人事の葛藤に煩わされずに済むため、悔いることはありません。
結局、人と同じくしないと似たような意味になりますが、同人の志がないわけではなく、あってもそれに執着しません。したがって、これに関わり煩うことがないので、吉凶も強いて問うところではありません。自ら悔いなしとする境地なのです。
占ってこの爻を得た人は、孤独であるならば、孤高のままで進んでよいでしょう。悔いることはありません。象伝はさらに言葉を添えて「いまだ得ざるなり」と言います。このような孤高独立の人は、自身に悔いはないかもしれませんが、人間として真に志を得た者とは言い難いのです。孔子は自分の理想を実現しうる場所を求めて放浪しました。その途中、野に耕す隠者に嘲られたことがあります。
孔子は答えた、私はあくまで人間を相手にしてゆきたい、麋鹿《びろく》を友とするような逃避的態度は取らない、と(『論語』微子)


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