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45.澤地萃(たくちすい)【易経六十四卦】

澤地萃(集まる/パワースポット)


thanks:感謝/gathering together:共に集まる

もの集まりて繁栄に至らん。 過大評価は禁物なり。


物相遇而後聚。故受之以萃。萃者聚也。

物相い遇って後あつまる。故にこれを受くるに萃を以てす。萃とは聚なり。

物事は、相互に出会い、その後に一つに集まるものです。萃の語源は、草が群れ生えることを指し、転じて人や物が集まる意味として使われます。
大地(坤)の上に沢水(兌)が集まり、草木が繁茂し、人々が集まり、交易が行われる様子はまさに砂漠のオアシスのようです。旅人はオアシスに出会い、天の恵みに感謝します。この卦は、現代の繁栄が天や祖先の霊の恩寵であることを忘れ、自身の力を過信しないよう戒めるものです。
この卦には、五爻と四爻の二つの陽が上下の四つの陰を集めています。似た卦として水地比卦がありますが、こちらは五爻の陽が上下の陰を統括し、陰の集まる所が一カ所です。それに対して、萃卦では五爻と四爻の二つの陽が上下の陰を統括し、陰の集まる所が二カ所に分かれています。
天子(五爻)と宰相(四爻)に権力が二分されている点がこの卦の大きな欠点です。天子は実力を持っているものの、国民は宰相を慕い、心から従っています。国民は宰相を通じて天子に従っているのです。

この卦の時は活気が漲り、やる気が出て何かしら人生に生きがいを感じるときといえる。 運勢は上々吉で平和ムード、非常に安定感のあるときでもある。 不思議と自分の周りに人が集まってきたり、何かのグループのリーダーに祭り上げられたりして人気の的になったりする。 もともとこの卦は人間生きることへの喜び、先祖への報恩と感謝を表しているものだから、それを体してこの大吉の運勢をより永く持続するためにも、喜びと感謝の心を決して忘れてはならない。 もしそれを忘れたり増長したり、強欲になったり、人をないがしろにしたりすると、後の祟りは大きいと承知した方がよい。 とにかくこの際は冥加みょうがに感謝し、先祖の墓参りとか法要を営むことも考えてはどうか。

[嶋謙州]

そこで大事なことは、人物をよほど選んで、結束組織しなければなりません。 それを怠りますといろんな異変がおこる。 それを明らかにしたのが萃の卦であります。 萃は「あつめる」でありますから、どういう人物をあつめるとよいかという人材登用、抜擢、組織、行動の卦であります。 抜萃という言葉などは、私たちの日常に使っている言葉です。

[安岡正篤]

萃。亨。王假有廟。利見大人。亨。利貞。用大牲吉。利有攸往。

萃は、王有廟ゆうびょういたる。大人を見るに利あり。亨る。貞しきに利あり。大牲たいせいを用うるに吉。往くところあるに利あり。

『萃』の字は、もともと草が群がって生える様子を表し、『聚まる』や『集める』という意味を持ちます。この卦において、下卦は坤で、順応の意を含んでいます。上卦は兌☱で、喜びを表します。喜びと順応が重なることで『萃まる』の意味を成します。または沢を象徴し、それが地面に存在することから、水が集まり沢となる意味も持ちます。雨が降り、地面に溜まる姿を象徴しています。雨水は地面に落ち、低い所へと集まっていく様子から、この卦は『萃』と名付けられました。さらに九五の「中正」(外卦の中で陽爻が陽位にある)と六二の「中正」(内卦の中で陰爻が陰位にある)が「応じている」ことも、萃まることの象徴です。これにより、『萃』と名付けられたのです。万物が萃まることを象徴しています。
水地比は、水と土が互いに浸透する性質を人々の親しみに例え、親しみから集まる動きを示しましたが、萃はその逆で、『集まる動きを基に』その中で親しみ交わる様子を描いています。また、水地比では、一陽との親しみの遅速が問題となるだけでしたが、萃では九五だけでなく九四にも陽爻があり、多くの陰爻が九四・九五の双方に惹かれることで複雑さが増しています。
萃の集まりは、物や人だけでなく精神もまた、一つの中心に集まることが重要です。『王有廟に仮る』の「有廟」の「有」は語調を整えるための接頭語で、「仮る」は「格る」つまり「至る」を意味します。心と心が通じ合うことを示し、王が廟を参拝して威霊に感応する様子を表しています。この卦が出れば、王者は宗廟に入って祭祀を行うのが良いとされます。朱子は、この句を実際に宗廟での祭りの前に、祭ることの可否を問うお告げと解釈しました。
『大人を見るに利あり』は、万物が萃まり、万人が萃まるからには、治める者がいなければ混乱を招くため、大徳のある人物に出会うことが望ましいという意味です。『亨、利貞』は、大人に出会えば願い事がすべて叶うが、あくまで正しいことを条件とします。不正な集まり方であれば願いは叶わず、不正な人々の集まりや財の不正な蓄積はすぐに散ってしまいます。
『大牲を用うるに吉』は、上文の「有廟に仮る」に続き、廟での祭祀に牛を犠牲として用いることを示します。下卦の坤には牛の象があります。『大牲』とは大きな生け贄を意味し、万物が豊かに萃まる時だからこそ、大きな犠牲を用いる贅沢が許されます。物が豊かで民心が萃まる時には、積極的に事業を興すことが吉とされます。
この卦の占断においては、廟祭に良し、偉大な人物に会うことに良し、大きな犠牲を用いることに良し、前進することに良しとされますが、常に正しさを守る戒めを忘れてはなりません。


彖曰。萃。聚也。順以説。剛中而應。故聚也。王假有廟。致孝享也。利見大人亨。聚以正也。用大牲吉。利有攸往。順天命也。觀其所聚。而天地萬物之情可見矣。

彖に曰く、萃は、しゅうなり。じゅんにして以て説ぶ。剛中にして応あり。故にあつまるなり。王有廟ゆうびょういたるは、こうまつりを致すなり。大人を見るに利あり亨るは、聚むるに正を以てすればなり。大牲を用うるに吉、往くところあるに利あるは、天命にしたがうなり。その聚まるところを観て、天地萬物のじょう見るべし。

萃は聚まることを意味し、古くは「萃」と「聚」は同じ子音を持っていました。上下の卦の性質や全体の卦形からも、萃は集まることを示しています。「王有廟に仮る」とは、王者が孝心をもって先祖に供物を贈ることを指します。「大人を見るに利あり亨る」というのは、正道に従って人々や物事を集めるからこそ成功するという意味です。「大牲を用うるに吉、往くところあるに利あり」とは、万物が豊かに集まり力が満ちた時に、厚い礼を用い大きな事業を行うのは当然であり、それが天命に従ったやり方であるということです。極言すれば、天地のあらゆる物は陰陽の気が集まって成り立っているため、その集まり方を観察すれば、天地万物の秘密が手に取るようにわかるでしょう。


象曰。澤上於地萃。君子以除戎器。戒不虞。

象に曰く、たく地にのぼるは萃なり。君子以て戎器じゅうきをじょして、不虞ふぐいましむ。

『戎器』とは兵器のことであり、『除』は掃除や手入れを意味します。つまり、兵器を整備することを指します。『不虞を戒む』とは、予測できない事態や突発的な出来事に対処できるように警戒し、落ち度がないかを確認することを意味します。要するに、これは危機管理の重要性を説いているのです。


初六。有孚不終。乃亂乃萃。若號一握爲笑。勿恤往无咎。 象曰。乃亂乃萃。其志亂也。

初六は、孚ありておわらず。すなわち乱れ乃ち萃まる。もしさけべば一握いちあく笑いとらん。うれうるなかれ。往けば咎なし。 象に曰く、乃ち乱れ乃ち萃まる、その志しの乱るるなり。

初六の陰は九四の陽と「応」じています。初六の本心は九四と一緒に集まりたいと願っています。主卦の中心爻である九五のもとに集まることを前提に爻象を見れば、この初六は「応」にも「比」にもあたりません。したがって、九五のもとに集まるべき時期において、応爻である九四と集まろうとするのです。しかしながら、中間には二つの陰(六二、六三)が存在し、これが初六を引き止めて九四との集まりを妨げます。初六は九四との約束を守りたいという誠意はありますが(=有孚)、その約束を全うすることができません(=不終)。心が乱れ、萃まるべきではない二陰と一緒に集まってしまうこともあります。このように進みたいのに進めない状況を『乃ち乱れ乃ち萃る』と言います。

もし初六が泣き叫び(苦しみや悩みを声に出して表現し)二陰の誘いに乗らなければ(=若号)、九四がそれを聞きつけて助けに来てくれるでしょう。
「それさ、早く言ってよぉ~」と。そして、初六は九四と手を握り合い、一団となることができ(=一握)、先ほどの涙は笑いに変わるでしょう(=為笑)。ですから、心配することはありません(=勿恤)。正しい「応」に向かって進む限り、咎められることはありません(=往无咎)。
象伝は、乃ち乱るだけでなく、乃ち萃まるという動作も、正常な行動ではないことを明らかにしています。



六二。引吉。无咎。孚乃利用禴。 象曰。引吉无咎。中未變也。

六二は、引けば吉にして、咎なし。孚あって乃ちやくを用うるに利あり。 象に曰く、引けば吉にして咎きは、ちゅういまだ変ぜざればなり。

『禴』とは、禴祭のことであり、殷では春の祭り、周では夏の祭りとして知られています。この祭りは、倹約の「約」と同音であり、簡素な祭りです。六二と九五は「応」の関係にあります。したがって、両者は自然と集まるべきなのですが、距離が遠く、さらに六二は小人(陰爻)の群れの中に埋もれています。そのため、九五の方から引っ張ってもらわなければ集まることができません。引っ張ってもらうことで初めて吉を得て、咎を避けることができるのです。下にいる有能な者を引き上げるのは上にいる者の責務であり、下の者はそれを待つべきで、自らの才能を誇示したり宣伝したりする必要はないと説いています。
また、六二は「中正」(内卦の中、陰爻陰位)であり、柔順(陰爻)で虚心に(陰は中空であるため)上卦の九五に「応」じています。九五も剛健(陽)で「中正」(外卦の中、陽爻陽位)であり、誠実(陽は充実しているため)に下の六二に応じています。これは、丁度、人が虚心に祭り、神が誠実に応えるのに似ています。故に、孚があって乃ち禴を用いるに利ありとされるのです。
象伝には「中いまだ変ぜず」とあります。六二もその「応」の九五も既に「中」に位置していますが、いまだ変ぜずとは何故か。六二が陰柔であり、陰の群れの中に埋もれているため、せっかくの中正の徳が変ずる危険があるのです。いまだ変ぜずという語気には、将来の変化を警戒する意図が含まれているのです。


六三。萃如嗟如。无攸利。往无咎。小吝。 象曰。往无咎。上巽也。

六三は、萃如すいじょたり。嗟如さじょたり。利するところなし。いて咎なし。すこし吝なり。 象に曰く、往いて咎なきは、上巽かみしたがえばなり。

この六三は、その意味や地位が初六と非常に類似しています。異なる点は、九四が比爻か応爻であるかの違いだけです。「萃如」とは集まろうとする様子、「嗟如」とはため息をつく様子を表します。
「巽」はここでは卦名ではなく、従うことを意味します。六三は陰柔の小人であり、二の「中」を外れ、位は「不正」(陰爻陽位)です。
上には応援がなく(上六も陰で応じない)、近くにいる陰同士で集まろうとします(=萃如)。しかし、六二は九五と応じているため、相手にしません。すぐ上には九四の剛がありますが、これも初六の相手です。そのため、六三は誰とも集まれず、ため息をつくばかりです(=嗟如)。何の利益も得られません(=无攸利)。
六三として残された道はただ一つ、応じる位は上です。上六のところへ行けば、上六は上卦兌、すなわち説ぶの一番上の爻だから、柔順に受け入れてくれます。だから上へ往けば咎はありません。しかし、上六も陰で六三も陰なので、本当の集まりにはなりません。せっぱ詰まって昇り行き、位のない(上は無位)末端の陰爻を仲間にしたため、やはり少し恥ずべきことです(=小吝)。
この爻を得た人は、たとえ身近に不正な強い援助者(九四)がいても、それを振り捨てて、遠くても本来助け合うべき貧窮の友人(上六)と交わりを結ぶべきです。


九四。大吉。无咎。 象曰。大吉无咎。位不當也。

九四は、大なれば吉。咎なし。 象に曰く、大なれば吉にして咎なきは、くらい当たらざればなり。

爻辞の意味は、器が大きければ吉であり、咎めを受けることはありません。本来ならば、皆は王の位である九五に集まるべきですが、そのすぐ下に位置する九四を慕って多くの者が集まってきます。その人々を引き連れ、王(九五)に仕える器の大きさがあれば吉であるということです。
九四は、自分のもとに民が集まる立場にあります。これは、直接主人のもとに行くよりも、支配人や世話人のもとに行く方が自然であるようなものです。九四の位置は衆陰に接しており、下々の情に通じていて、人心をまとめるのに適した地位です。そのため、民心は九五よりも九四に集まりがちです。
九四は陽が陰位にあります。これは「不正」であり、本来ならば咎があるはずです。しかし、上には九五の君に密接し、君との関係を得ており、下には陰の群れと親しく、民の心を掌握しています。このような地位にある九四が、大人君子でなければ、大変なことになります。民心が自分に集まったことを利用して権力を増し、私腹を肥やすような小人であれば、世を乱し、君を貶める大不祥事を引き起こすかもしれません。
だからこそ、九四は大人であり、私心のない君子でなければなりません。これが『大なれば吉』という意味であり、『大いに吉』ではありません。これは陰位の陽爻であり、居るべき所が正しくなく、位に適していないため、条件付きの吉となっているのです。



九五。萃有位。无咎。匪孚。元永貞。悔亡。 象曰。萃有位。志未光也。

九五は、あつむるに位あり。咎なし。まことするにあらざるときは、元永貞げんえいていにして、い亡ぶ。 象に曰く、萃むるに位あり、志しいまだおおいならざればなり。

『孚』は信頼を意味します。『元永貞』は比卦辞にも見られ、大善の徳を指し、永久的に正しいものを示しています。九五の位にある者は剛毅(陽)であり「中正」の性質を持ち、徳において天下の民を集めることができ、五の尊位を有しているため、何の咎もありません。
もし万人から信頼されない場合でも、自己の大善で永久的で正しい徳を修めることで、信頼されないことから来る悔いも未然に防ぐことができます。孔子も『論語』季氏 第十六において「人服せざれば、文徳を修めて以てこれを来す」と述べています。
九五の位にある者は剛健中正の性質を持ち、主卦の位にいるため、衆陰が集まってきます。しかし、これらは徳の影響で集まるのではなく、地位の威光によって集まるため、吉とは言えません。それでも、集まること自体は確かであるため、咎を免れることは可能です。
咎が生じる脆弱さは、徳や親しさではなく、位の威光によって集まるため、集まってくる者に真心がない点にあります。これが『孚に匪ず』という状態です。
九五は力があり親愛される九四に覆われていますが、集まるべき所は九五であることが十分に理解されていない状態とも言えます。しかし、地位のために集まるのであっても、それを永続的に行えば、ついには習性となり、信頼にも通じ、咎が生じやすい脆弱さを消すことができるのです。
この爻を得た人が占った場合、人望を得て高位に就くものの、まだ信頼されないときは、自己の徳を修めるべきであるという戒めになります。

※象伝の『志しいまだ光いならざるなり』は、
爻辞の『孚とするにあらざるときは』を説明しています。

上六。齎咨涕洟。无咎。 象曰。齎咨涕洟。未安上也。

上六は、齎咨涕洟ししていいす。咎なし。 象に曰く、齎咨涕洟するは、いまだかみに安んぜざればなり。

上六の位置にある者は、集まりたいと願うものの、孤立してしまう存在です。そのため、嘆き悲しむことになります。
『齎咨』は悲しみや恨みの声を表し、『涕』は目から溢れる涙、『洟』は鼻から流れる鼻水を意味します。
上六は萃の卦の最後に位置し、柔弱(陰)で地位も持たないため、仲間を集めようとしても誰もついてきません。また、九四のように下卦の陰爻からも心を寄せられることはありません。結果、嘆声を漏らし、涙と鼻水が滂沱として流れます。これは、孤高の地位にあっても、本人が必ずしもその状況に安心しているわけではないためです。
「咎なし」とは、この爻を得たとき、孤立無援であるものの、常に自身の孤立を悲しみ憂い、他者が集まってくれるように反省するならば、過ちを避けられるという意味です。つまり、集まる時であるからこそ、孤立したままで過ちがないわけではありません。


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