2023.07.22 土曜日
他人と話をしている時に、お互いが「うん?」「うん?」となって、ちょっと気まずい空気が流れた、という経験は、誰しも一度はあることだろう。こういった現象を学術的(?)には「コミュニケーションの齟齬(そご)」と呼んだりするらしい。
ちなみに「齟齬」という言葉を口頭で述べても「そご?」と聞き返されることも多いため「話が嚙み合わない」など、別の表現を用いた方が無難かと思われる。あくまでも「文語的表現」であって「口語的表現」ではないことに留意しておきたいものだ。
それで、今回、僕の恋人とやり取りする中で、そういった事例、コミュニケーションの齟齬と呼べる状況に出くわした。結論から言うと、僕の至らなさに因る問題が大半を占めているのだけど。「なるほどなぁ」という学びや気付きを得る機会にもなったので、併せて、共有させてもらおうかと思う。
「僕の至らなさ」とは何かと言うと、単刀直入に申せば「今カノの前で元カノの話を持ち出す」という、言わずもがなのNG行動を僕は犯したわけである。一応、僕の言い分としては「違う、論点はそこじゃない」だったわけなのだが、言語道断。逆の立場で物事を考える能力の未熟さ、この一言に尽きると言えよう。
そもそも、話し手は、聞き手がどう受け取るのかをコントロールする裁量権は有していない。このことを絶対に忘れてはならない。言ってしまえば当たり前のことなのだけれど、今回の僕の言動も含めて、どこかに「甘え」が生じた結果、相手に求め過ぎたりだとか、「そんなつもりで言ったんじゃない!」と、自己正当化に走ったりすることが多いのも、また事実。うーむ、我ながら耳の痛い話だ。
というわけで、具体的な話に入って行こう。
僕は、以前、山口県民の女性とお付き合いしたことがある。彼女は、チャーミングな訛り言葉がとても魅力的な方だった。かねて好印象を持っていたこともあってか、恋人関係に発展して間もない頃から、彼女の訛りが僕の話し言葉にも影響していったわけだ。
例えば、僕は、関西生まれ関西育ちであるから、標準語で言えば「〇〇だったら~」というセリフを「〇〇やったら~」と言う傾向があるのだけれど、山口県民の彼女は「〇〇じゃったら~」と言っていた。ちなみにこれは広島弁かと思われる。さらに、僕自身、広島東洋カープのファンでもあったので、尚更、広島弁が出る彼女が可愛く思えた。そんなこんなで、気が付けば、僕の口からも「〇〇じゃったら~」という言葉が出るようになったわけだ。
そんな関係性を築いていたのが、僕が大学2年生の頃。年齢で言うと、ちょうど20歳ぐらいになるのだろうか。今年誕生日を迎えると29歳になることを考えれば、ざっと10年近くも前の話ということになる。うーん、こうやって改めて言われてみると、時の流れって、ホント、早いっていうのか、なんなのか。ある種の残酷さも覚えてしまうのは僕だけなのだろうか。
まぁ、それはいいや。物思いに耽るのは後にして…。
以上のことから、10年弱もの長い年月が経ったにもかかわらず、今なお、僕は「〇〇じゃったら~」という言葉が口をつく瞬間が、しばしばある。「しばしば」なのがポイント。「たまに」ではない。それよりも確実に多い。「頻繁」と言うほど多くはないけれど、でもそれなりには言ってるよね、とった具合に。うん、上手く説明するのが難しいね。1回言うたびに数えているわけじゃないんでね。あくまでも感覚的な話になってくるから。
で、話を昨日に戻すのだけど、昨日の僕も、無意識に「〇〇じゃったら~」と口で言っていて、それを言っている自分自身に「あ~、また『じゃったら』とか言ってるよ。『ナチュラル・エセ広島弁』やめてくれよ(笑)」などと、セルフツッコミを入れたわけだ。
結果的に、ここで終えていれば良かったのだけど、女心が分からない、もとい、分かろうとする意識自体が希薄と言わざるを得ない僕は「未だに山口県民の元カノの言葉遣いに影響を受けているらしい」などと、要らぬ一言を付け添えてしまったわけだ。
はじめに、申し訳程度の弁明をしておくと、僕は「山口県民の元カノに対する未練がましい想い」を伝えたかったわけではなく「すぐ周りの人に影響を受けてしまう自分」ならびに「人間は環境に左右される生き物」という一つの真理について言及したつもりだった。しかし「つもり」というのは、得てして「つもり」なのである。要するに、自分本位な考え方に過ぎないというわけだ。
案の定、と言うべきか、今カノである僕の恋人は「(あなたの口から発せられる元カノ話は)もうお腹いっぱい」と、ゲンナリしたような表情を浮かべながら、ポツリと言われた。そんな光景を見て「あぁ、また、僕の悪い癖『いつも一言多い』が発動してしまったのだな…。」などと、心の中で独り言ちたわけである。
僕としては「元カノ」は「イチ登場人物」に過ぎない、という腹積もりだったのではあるが、恋人からすると「内容」よりも「ヒト」に意識が向かざるを得なかったのであろう。前述した通り、どこからどう見ても、僕の失態以外の何物でもない。コトが起きた後だと「ああ、まずったな」と気付けるわけだが、時すでに遅し。「後知恵バイアス」では、問題を未然に防ぐことは出来ないことを、我々人間は知っておかなければならない。無論、自らに言い聞かせるために、今こうして書いているわけだ。
そう。何事も「先回りの精神」が大切なのだ。4字熟語で表現するのであれば「先憂後楽」などがソレに該当するであろうか。読んで字の如く「先に憂いて、後に楽しむ」。他の人が憂いていない段階、つまり、危機管理の必要性を認識していない段階から「〇〇すれば△△になるかもしれない」などと言った風に「かもしれない運転」の意識を強く持つ必要がある。
にもかかわらず、僕は、それとは真逆の行動と言える「〇〇すれば△△になるだろう」という「だろう運転」で行ってしまったことにより、冒頭から述べてきた「コミュニケーションの齟齬」に繋がったわけである。繰り返しになるが、話し手が「聞き手の人はこう受け取ってくれるだろう」というのは、甘え以外の何物でもない。とりわけ関係性が深い相手にほど、我々人間は「~かもしれない」よりも「~だろう」を優先してしまうきらいがある。そんなことを如実にあらわしているのが、今回の一件というわけだ。
だからこそ、くれぐれも、話し手側は、聞き手側に対して「そういうつもりで言ったわけじゃない」だとか「論点をずらして解釈するアナタに原因がある」などと言って、自分の発言に非はないことを主張してはならないのだと、この場をお借りして、強く言っておきたい。その点に関しては、僕自身を、すこ~しだけ、褒めてあげても良いかな、とは思う。いわば「見苦しい弁明」を取らなかったのだから。その一点だけを評価して、100点満点中、5点はあげても良いのかもしれない。
こんなことは今更書くまでもないのだが、相手が嫌がっているにもかかわらず、自分は何も悪いことはしていないのだと居直り、いけしゃあしゃあと言葉の暴力を行ない続けるヤカラは「ろくでなし」以外の何物でもない。
ゆえに、その点だけは、良かった。どうやら僕は「ろくでなし」まで、人間としての価値が堕落していなかったらしい。「ホッ」と一安心したい心持ちだ。
そんなわけで、次のステップとして、トラブルが起きる前から「~かもしれない」と、想定する癖をつけなければならない。今ある5点を10点、15点、20点と増やしていくためにも・・・。