「鶴の一声」の正当化根拠

先週の日曜日から彼女の家に泊まり続けて1週間経過。もはや同棲。寝起きが激悪いところを毎日布団をひっぺ替えされながら起こされ、皿洗いをし、一緒にご飯を食べて、1人で勉強したりチャリ飛ばして公園まで行ってトロンボーン吹いたり、仕事終わりの彼女を職場まで迎えに行ったり、彼女と一緒に散歩したりネットサーフィンしたり音楽流したり話したり……。もはや当たり前──日常──となった同棲生活。それが今晩で終わってしまう。

僕の精神疾患は、彼女と離れると悪化する。彼女と会うと安心するし、落ち着く。だから、家を抜け出して彼女の家に泊まりに来た。その結果、症状は波はあれど平均して快方に向かった。余裕が生まれたり、幸せな気持ちになった。

しかし、父親から、帰ってくるようにと連絡を受けた。曰く、「大金かけて世界旅行したら精神病が治るからって旅行するのか?しないだろ。人を殺したら治るからって殺すのか?しないだろ。彼女のそばにいると症状が良くなるからって、置かれた環境でやれることやるしかないだろ」と言う。

さて、世間一般的には、子供が恋人の家に泊まりに行くことや同棲することを良しとしない親の価値観がある。なぜだろうか。危ないから? 否、彼女と僕の両親は面識があるし素性も明らか且つ年単位の交際だ。しかも僕は男だ。何も危険ではない。では、彼女に迷惑がかかるから? 否、彼女は僕を連れ戻そうと考えている父に激昂し、僕が実家に帰る事実を前に涙した。皿洗い・(彼女の指導の元で)ちょっとした料理・風呂掃除・買い物、僕なりに手伝うようにしている。彼女は僕の連泊に迷惑を感じていない。

そして、僕は親に迷惑をかけただろうか?
僕が実家にいないことで、水道光熱費や食費は節約できる。別に彼女の家に泊まるにあたり、親から資金援助を受けた訳でもない。実家にいたところで、自分の部屋で1日ぐうたらして食事を摂って寝るだけだ。親には全く迷惑をかけていない。

親が子供の外泊を嫌がる心理の根本にあるのは、「不快だから」である。確かに、快/不快という感情は、道徳や倫理と結びつくことがある。ただし、それが正当化されるのは──不快だから道徳/倫理に反している=良くないことと捉えることが正当化されるためには、納得できるだけの言語を用いた論理構成が必要だ。「不快だからダメ」というのは納得できるように一瞬見えるが、""どう不快なのか""をまず言葉に落とし込み、""その不快はどう防ぐ必要性があるのか""を語らなければ、理にかなっているとは言えない。僕が両親の生存が不快だから両親の生存権が認められないのか、そんなわけない。合理性が必要である。

思うに、母も父も「子供のくせに」という姿勢が強い。子供だったらなぜそれが適切でないのか、彼らは言語化できない。ベルクソンで言うところの、「質」を「量」に落とし込むことが出来ない。残念だが、納得なんてとてもできないし、駄々を捏ねている様はむしろ親が子供のようだ。

何も、いつ何時でも必ず真剣に合理性を考えろとか言語化しろと言うつもりはない。人の発言が気に障った時、「それムカつく」と言うのは人としてよくあること。そして、大半のことは、相手方が失言に気付いて、つまり失言が失言である理由に気付いて、謝ることができる。

ただ、今の僕は両親の感情論に納得していない。人に不快感ゆえに行為の禁止を強要するなら、""詳細な言葉""は欠かしてはならない。父は、言葉足らずだ。

このように憤りを感じるが、されど父は学費のスポンサーなので、渋々帰宅するしかない。ただ、何か文句言われたら徹底抗戦してやるつもりではある。

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