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祖父の自伝(5)〜祖父の思いが今繋ぐもの

私の祖父、ぶどう狩りのマルタ園初代園主 
中根武雄が生前書き残した自伝です。


時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ、自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。


家族 その4


武雄の生い立ち


大正7年10月5日
吉藏の長男として生まれる。

昭和6年3月恵田尋常小学校卒業。
当時の家族の構成は、おじいさんおばあさんと
両親4人に兄弟2人の計6人の家族であった。

家庭的には非常に恵まれ、
体も丈夫で餓鬼大将で腕白坊主で
着物をよく汚す破ると叱られ通しであった。

昭和8年3月。岩津尋常高等小学校卒業。
同4月岩津町立青年学校へ入学。
月4、5回の出校日であり
主として軍事教練である。

さあ、これからは毎日仕事をせねばならない。
いやだなぁと子供心に心配したことを
今でも思い出す。

長男だから仕方ない。
母親に連れられて野良仕事に
出かける欲もない。
遊びたい一念の若者を毎日連れ出すのは、
さぞおふくろも難儀をしただろうと思う。

仕事がいくら忙しくても、
青年学校の出校日青年団の行事等には
必ず出席させてくれた。
これを思うと、何だか仕事しないと
悪い様な気がしてくる。
出ていけば小遣いもいる。

「銭が欲しければ日雇いに出てもいいぞ」
と言われ農閑期に砂防工事に出かけた。
子供あがりで1日の人工賃が50銭であった。
一人前の男で90銭位。
女70銭位であったと思う。

当時米一俵が10円位だと
おふくろが話してくれた。

又、小遣い欲しさに学校を休むと、
兵隊に行ったらどうすると叱られる。
親の心子知らず。

おふくろは自分のことより
俺の先を案じてくれた。
そんな母親の躾で、
出来る限り青年学校の行事には
出席する様に心がけた。

昭和13年の冬。
根石小学校の敷地造成工事。
建文建設のトロッコ押しに行った。
飯場には、監督と幸田町の農家5人が
宿泊していた。
毎日通うには少し遠い。
監督からもどうだと要請もあり、
連れと2人で一緒に寝泊まりすることになった。

仕事場は日本人より朝鮮人の方が多かった。
最初のうちは仕事に慣れないせいも
あるだろうが体が痛く小便は黄色くなるし、
えらくてえらくてたまらなかった。
飯場に居ては「けつ」を割ることも出来ない。ありがたいことに、監督が大目に見てくれて
大変に助かった。

だんだんと日がたつに連れ仕事にも慣れ
今度は腹が減る様になって来た。
その時のことを「馬鹿の一つ話」で
よく話をするが、1日に一升ずつ食べた。
毎食飯茶碗に10杯は食べる。
特に朝は10杯は食べないと、
11時ごろには腹が減ってトロッコが
押せなかった。
飯場の人は全部がこの通りで、
ボケボケしておれなかった。

伸びる盛りか食い盛りか、
それにしてもよく食べたものだ。
丁度その時年度末で、
青年学校の定期身体検査があり、
ひと月余りに胸囲3センチ体重4キロと増え
先生もびっくりしたが自分にもおどけた。
一冬で見違えるようになった。

8月徴兵検査甲種合格。
身長は無いが、横に太い為に
砲兵に選ばれ入営することになった。

4連隊の初年兵200人のうち、
小さい方から5人の中の1人であった。
馬の方が俺より大きいのもいた。
もし教練で当たると人一倍難儀をした。



家族 その五 女房良枝との出会いにつづく



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