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祖父の自伝(3)〜祖父の思いが今繋ぐもの

私の祖父、ぶどう狩りのマルタ園初代園主 
中根武雄が生前書き残した自伝です。


時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ、自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。


家族 その2


おふくろ や江の味


おふくろ、や江は明治20年8月28日
岡崎町大字小呂3番戸(現 岡崎市小呂町)
香村利吉の長女として生まれる。

明治43年3月26日、父吉蔵と結婚。
昭和12年2月6日、吉蔵死亡。
時におふくろ51歳。
長男武雄19歳。
76歳の舅(しゅうと)。72歳の姑(しゅうとめ)と次男、実(みのる)16歳を抱えて世の荒波を渡ることとなった。

女手で一家を背負ったからには、
何としても後継者武雄を、
一人前の百姓に仕込んでいかねばならぬ。

親の心子知らず。

欲のない若者を使って行くのにも、
さぞや骨が折れたことだろう。
常に口癖のように

「後家の子だと後ろ指指されるような子になってくれるなよ。」

とくどく厳しく言った。

「まあ、くどいなぁ。いっぺん言やぁ分かる」

と反抗したこともあったが、
おふくろは真剣である。

仕事するより勘考せよ。


よく後先を考えて、順序正しく無駄のないように仕事をするのを上手と言うことだと話す。


農業は自然の中に培われ育つのである。


当時はラジオもテレビも無い。
天気予報も聞こえて来ない。

只、自分に自然の動きを眺めながら
過去の経験を生かし、
毎日の農作業に当てはめて行くのが、
最少限度に押さえる大事なことだと聞かしてくれる。時にふれ、こんなことも教えてくれた。

漁師が雲の動きを眺めて出漁を判断するように、雷の鳴り出した方向により、雨が降る降らないを判断する。

「戌刻の夕立は叔父ごのぼたもち」
(いぬいのゆうだちはおじごのぼたもち)

北西の方角で鳴り始めた雷と雨は、
夕立となって必ずここまで来るの意味。


又、地震についてはこんなことも言った。

「四つ日照り五七の雨」
(よつひでりごしちのあめ)

「六つ八つ風の九の病」
(むつやつかぜのくのやまい)

これは、四つ(今の10時)に地震があると日照りになる。
六つ(今の6時)八つにあるとその後大風になると言う意味である。


※訳注 五つ七つどきは雨が降り、九つどきには病の前兆。要するにどの時間帯の地震であっても、後に様々な災害がやってくる。地震の後にくる災害に備えよと言ったもの。

女にしてはよく知ってるなぁと感心した。


一年の天気を予言する寒だめしとやらは
こうして見ると言った。

寒の入りから2日半日が1ヶ月。
寒の明け節分で12ヶ月一年である。

※訳注 1月初旬頃からの1ヶ月が、この1年の天気の凝縮であるということ。

寒の雪は夕立を表す。これによって今年は水が多い少ないを判断すると言う。

「当たるも八卦、当たらないも八卦」

大自然の中に立ち希望を持ち、
毎日を楽しみ励むのも農業の特色と言えよう。

ある床屋さんに貧乏人が金儲けの秘訣を聞かして欲しいと尋ねた。

「よし、教えてやる」と井戸端に連れて行き
底なしのつるべで水をくました。

いくらくんでもたまるはずがない。

今度はこれでやれと
底ありのつるべで水をくました。

今度は水がたまった。
分かったかと教えたそうだ。

話は続く。


どこの家にも馬鹿が三人いる。三人の馬鹿は

あれ馬鹿
これ馬鹿
それ馬鹿である。

これから生活していくのに、
この3つの馬鹿を大切にすることが
豊かな暮らしの基礎となるのだと教わった。


感心なことに、いくら忙しくても
青年団の行事、青年学校の出校日などには
必ず出席させてくれた。

ある時青年団の行事で、弁論大会が
催されることになったが、
支那事変の真っ最中で、
1人一研究の発表に変わった。
俺に出よと役員から依頼された。
経験の浅いのに出来るはずがない。
おふくろに教わりながら
「農作物を有利に販売する私の研究」
と題して出場した。

岩津町青年団で予期もしない第一位。
額田郡連合青年団の発表会が
豊富小学校で開催され、
又一位と想像のつかない成績であった。

翌年も又頼まれ
「畑苗代五か年計画」
と題して出場した。
岩津青年団で一位。
郡の連合は常盤小学校で開催され、
2位と連続の好成績を上げることができた。

陰のおふくろの力に感心し感謝をする。


気持ちも湧き農業にも興味を持つようになり、
おふくろの手助けをしようと決心したがつかの間。

昭和13年8月徴兵検査甲種合格。
翌年5月1日、野砲兵として名古屋野砲兵第三連隊に入営することになった。

留守家族は70越した祖父母、おふくろ53歳、弟18歳であった。
おふくろは入営以後、
無事に働けるようにと、毎日陰膳を飾りながら拝み続けてくれた様である。

昭和15年8月19日のことである。
おふくろはいつもの様に、1人野良仕事に出掛けた。何だか武雄が帰ってくる様な氣がして仕事が手につかない。
来るはずがないと思っても仕事が手につかない。とうとう1日中畦(あぜ)に腰をおろしたまま日が暮れてしまった。何かあっただろうと心配して佛(ほとけ)さんに参ったと、
面会に来て話す。

振り返って見ると、南支(なんし ※かつての中国南部)広東(かんとん)から病院船で台湾に患者として護送される日であった。


親の子を思う一念
 の尊さにはびっくりしました。


帰ってくるまではどんな不自由があろうと不自由とせず、下駄一足買わず辛抱を続け、老祖父母の面倒を見ながら留守を守ってきたと話し続けた。

息子を思う一念に真剣に働いてくれたおふくろの満足はない。恥ずかしい病院の番である。何としても笑顔を見るまでは頑張り抜くと、覚悟を心に秘めてお別れした。

除隊してからもよく働いてくれた。
嫁探しは「金の草鞋に梅干し三升」という
ことわざがあるように、体をいとわずよく歩き回ってくれた。


思い出深い母親。俺にとっては立派なおふくろであったと思う。


昭和22年11月17日。63歳でこの世を去った。もう少し長生きして安楽な生活をさせてやりたかった。


農業一筋に頑張ってこれたのも、
おふくろのお陰であるとつくづく思い出し感謝をする。

十分な孝養も出来ず今の自分が悔いまれる。


家族その三 實(みのる)の覚えに続く。

お読み頂きありがとうございます!




 や江さんが生まれて今年(2023年)で135年。遠いような案外近いような感覚を感じます。

武雄さんが二十歳くらいの時に戦争というものがあり、本当にそれは大きなものとして、国をあげて世界中をあげてあった世の中。

武雄さんの父が日露戦争に参加して、(1904年)それから40年後に太平洋戦争があって、戦争という空気感は、武雄さんが生まれてから、や江さんが生まれてから何となく彼らの中には、いつもあったのでしょうか。

日々、コツコツと自然と向き合い、農業と向き合い、戦争という時代と向き合いながらも、
より良くなるように勘考して。

そしてや江さんは息子の無事を願い。
武雄さんは母を楽にさせてあげたいと願い
楽にさせてあげられなかったと悔やむ、、、


戦争を知らない世代の僕ら。

僕が若い時、よく武雄さんに、

「今はほんと幸せだぞん」

と言われていたのを思い出します。









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