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祖父の自伝(4)〜祖父の思いが今繋ぐもの

私の祖父、ぶどう狩りのマルタ園初代園主 
中根武雄が生前書き残した自伝です。


時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ、自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。


家族 その3


弟 實(みのる)の覚え


大正11年10月22日吉藏の三男として
生まれる。
(次男光義は生後1ヶ月で死亡)

昭和13年3月岩津町立岩津農商学校
(現愛知県立岩津高校)を
一期生として卒業する。

父親は亡い。
兄武雄が兵隊に行った後は、
年寄りばかりで母親1人では農業するのに
とても無理である。

祖父母は身を案じ手伝うことは出来ない。
武雄が兵隊から帰ってくるまでは、
家で手伝ってはどうだ。
女1人ではと家を心配し、
弟實に言い聞かせる。

いつ帰ってくるか分からない。
来たらもう要らないでは余りにも
可愛そうである。
父親の亡いのが不幸のもとで、
新家(しんや)に出すような力は毛頭ないし、帰ったからと言って
一切の面倒も見てやれない。

色々家族相談の結果、弟實は、
進むべき道を求めて一生目指す職に着くことが何よりも本人のためだろうと、
名古屋の岡本工業株式会社に
組立工として入社することになり寮に入る。

留守家族はおじいさん金次郎77歳。
おばあさん、つま74歳。
おふくろ54歳と高齢者ばかりである。
苦労は多いだろうがやれるようにして、
やるしかないと兵隊に行く。

弟は家を心配して、用事のない限り
土曜日の仕事終了後、名古屋から40キロの道を自転車で来ては、終日の日曜は
1日手伝いをして夜帰って行く。


こんなことを繰り返しながらよく留守を守ってくれたとおふくろが喜んで話す。
こんなことは誰にも出来ることではない。
弟は頭が下がる感心なやつだったと、
思い出が残っている。

留守中親達が困窮を忍びながら
職を求めさせてくれた。
その感謝のあらわれではなかったであろうか。
又後日に机の引き出しから、
岡本工業当時真面目な模範工員の
表彰を受けた賞状が出てきた。

昭和17年徴兵検査甲種合格。
翌年3月1日名古屋歩兵第6連隊に入営。
1週間程して北支(※中国北地)派遣軍現地部隊に出発する。

その後、3枚程写真を送ってきたが
以降音信不通で、時折り母親が
「今頃どうしているなぁ」と心配しながら
話を出すが、全く分からない。

突然に、昭和20年4月13日フィリピンルソン島マニラ北方10キロの地点にて戦死す、の公報が県知事名で届いた。

家族は余りにも突然の出来事で呆気にとられ、半信半疑、骨箱の中にはお骨でなく
法名である。戦死した氣がしない。
本当に戦死したなら一枚の紙切れでなく
骨が入っているのが当然であるのに
なぜだろうと疑はざるを得なかった。

岩津町主催の合同葬が、岩津小学校の庭で
挙行され本当に戦死したのだなぁ。
もういつまで待っても帰ってこないと、
あきらめてもあきらめがつかない。


あったら青春時代を御国の為とは言え、
可愛そうだったなぁと思えば思うほどに
こみあげてくる。
手を合わせずにはおれない心境である。

骨のかわりに、戦死した砂が霊砂と書いて
届けられた。しかし心からの納得がまだ出来ない。戦地の状況なりと思い泉部隊の様子をと聞きに出かけた。


弟、實は八連隊で全滅に近い状態で
生存者がほとんどなく、全くわからない。
調べる術もなくなった。


今俺がしてやれる事は、少しでも面影を
残してやろうと、等身大の石像を彫刻し
墓として建て供養してやった。


早死する位だったので留守家族へ、
人に真似の出来ないような孝行を
してくれたのだなぁ。
弟とは言え、短い人生を立派に送った
偉いやつだったと思うと、
こうして書いていても胸にくるものがある。




家族その四 武雄の生い立ちにつづく。

お読み頂きありがとうございます!


實さんの石像




今でもうちのお墓の中に
實さんの石像があります。
實さんが亡くなり、
實さんを偲んで
石像を建てた武雄さんもいない。
石像だけは残っている。

石像で残された實さんの思い。
残そうとした武雄さんの思い。

忘れ去られたら消える。

目に見えるカタチで残して頂き、
石像に触れ手を合わせる時、
今ここに生きていることの感謝と
声援を感じます。









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