見出し画像

神のココア

あの日は仕事終わりで夜から人と会う予定があった。いつもより早く仕事が終わって、約束まで40分くらい半端な時間が出来てしまってどうしたものかと思った俺は、カフェで時間を潰すことにした。混雑を避けて少し駅から離れたチェーン店に入る。しかしこんな時間にコーヒーを飲んだら眠れなくなってしまうかもしれない。俺はホットココアを頼むことにした。

冬場の乾燥と、昼間の仕事で疲れていたのもあったのかもしれない。「ホットココア」と注文しようとした俺の口から出てきてしまった言葉は、「ゴッドココア」だった。変な噛み方をしてしまった。恥ずかしい。慌てて言い直そうとして店員さんの顔を見ると、目を丸くして驚いた様子だった。何もそんなリアクションをしなくても……。しかし俺が次に何かを言うよりも先に、店員さんは「少々お待ちください」と言って深刻そうに奥に引っ込んで行った。

若い店員さんに変わって出てきたのは、明らかに店長さんっぽい女性だった。「お待たせ致しました」と丁寧におじぎをしてから、少し震えた声で、「ご注文は……ゴッドココアでよろしいですか?」と女性店長は言った。どういうことだ?俺はただちょっと噛んだだけだ。ゴッドココアなんて商品はメニューにだってないじゃないか。いや、あるのか?ゴッドココア、神のココアが?ここまで来ると俺はゴッドココアが気になってしまった。「はい」と返す。「畏まりました。1杯1400円ですがよろしいですか?」と彼女は言った。高い。でもそれくらい出してやろうじゃないか。俺は小さく頷いてお金を払った。

それは、エスプレッソを頼んだ時に出てくるような小さなカップ(デミタスカップというらしい)に入って、店長さんが自ら席まで届けてくれた。エスプレッソのシングルショットより少し多いくらいの量。しかしテーブルに置いたままでも濃厚な甘い匂いが届くくらいだった。取ってをつまんで口まで運ぶと、カップが顔に近づくにつれて芳醇な香りがどんどん濃くなってゆく。吸い込まれるように口をつけてひと口飲んでみた。なんという甘さだろう!全身の血管がいっぺんにぶわっと開くような感覚。舐める程度のほんのひと口だけで視界がクリアになって、周りの景色がキラキラと輝いて見えるようだった。2度3度と口をつける。今まで味わったことのないくらいの濃厚さだと言うのに、身体がこの甘さをもっともっとと欲してしまう。そしてひと口飲み込むたびに、世界は目まぐるしく色を変えるのだ。こんな体験は初めてだった。

最後のひと口を飲み終えてカップをお皿に置いた瞬間、店長さんが1杯の水を持ってきてくれた。「どうぞ」と丁寧に差し出された水をひと口飲む。あの水がなかったら、俺は現実世界に戻ってくるまでにもう少し時間がかかっただろう。店長さんは、丁寧に、「ありがとうございました」と見送ってくれた。しかしその態度からは、このことは他言なさらぬように……という無言の圧があった。

あれからいくつかのお店で「ゴッドココア」と頼んでみたことがあるが、普通に「ホットココアでよろしいですか?」と言われただけだった。あのお店だけの特別な裏メニューだったのだろうか?俺がゴッドココアを飲んだ新宿駅南口の外れのド○ールは潰れてしまって、今は駐車場になっている。もう一度、もう一度だけでいいからあの神のココアが飲みたい!そう願ってもう5年になる。

よろしければサポートいただけると、とてもとても励みになります。よろしくお願いします。