見出し画像

【旅行】『緑の魔法』(奈良県吉野)

夏を先取りしたような五月晴れの週末、奈良の吉野まで小旅行をしてきた。
近鉄奈良駅から小豆色の車両に乗車してみると、急行の車両は思いのほか揺れて、ちょっとした船酔いのようで慌ててしまった。
久しく電車に乗っていないと、こんな些細なことも発見になるものだ。

吉野を訪れるのは、実に20年ぶりである。
関西のとある大学の学生であった頃、ふらりと思いついて訪ねたことが1度だけあった。四半世紀近く前のことであるから、ほぼ記憶はないのだか、唯一トイレを借りたことだけは覚えている。
吉野にあるごはん屋でのことで、トイレを使おうとしたところ、男性用が混み合っていた。そのお店のトイレは男女ともに一人用になっていて、なかなか順番が回ってこない。すると、お腹を下していた私がよほどひどい顔をしていたのだろう、店の人が気を利かせて女性用のトイレを使わせてくれた。感謝感謝で用を済ませて出てみると、次の順番待ちをしていた女性と目が合い、気まずい思いをした。
と、たったこれっぽっちの思い出なのだが、どうしてか20年たった今でも、そのときの気まずさは忘れていないのだから、記憶というのは不思議なものだ。

橿原神宮前駅に着いた。奈良からの路線はここで終点となり、起点の吉野行に乗り換えとなる。
L字型の駅構内を移動中に、駅長室の看板が目に入った。造りが古い。
ふと内田百閒の『阿呆列車』を思い出した。

用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。
なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。

『第一阿呆列車』内田百閒

今回の吉野行きにも特に目的があるわけではなかった。あえて言うなら、そこに吉野があったから、であろうか。

ぼんやりしているうちに飛鳥駅である。
駅名は飛鳥だが、村の名前は明日香。同じ読みだが違う漢字が使われている。当たり前のように飛鳥のほうが正当だと思ったが、よく見ると明日香のほうが字の通りの読みで、飛鳥のほうが当て字ではないか。
これも学校教育の刷り込みではないでしょうか、と人知れず報道番組のコメンテーターを演じていると、ハイキングに向かうと思しき年配の一団が連れ立って降車していった。背負っているリュックの原色に負けないくらい、溌剌とした顔をしていた。
歩け、歩け、カチカチの頭でっかちになる前に、である。

飛鳥駅を抜けてしばらく進むと、一段と建物の数が減った。
列車が両脇から伸び出た木々の作る緑のトンネルをくぐり抜けていく。
遠くに山々が、近くに草花が見える。
若草、萌黄、と透明にきらめく新緑たち。
しばし見惚れていた。
向かいの席のマダムたちも、来させてもうて感謝やね、と歓声を上げていた。

そうして、終着の吉野駅に到着した。
駅舎は頭端式になっていて、ぱっと見て外国風だと思っていたら、品のある濃紺色の車両が停車していた。後で調べてみると「青のシンフォニー」という大阪阿倍野橋駅と吉野駅を結ぶ観光列車だった。
駅舎を出てみる。やはり四半世紀前のことともなると、まるで記憶が喚起されなかった。
右に観光案内所、左に数軒の商店が並んでいる。
え? お店ってこれだけしかないの? と急に心もとなくなったが、ロープウェイの時刻表を見ると、もう発車数分しかないではないか。ええい、ままよ、とロープウェイに飛び乗った。

軽自動車くらいのミニサイズのロープウェイが、ゆっくりと動き出した。
甘く見積もっても初老のボディで、えっちらこっちら登っていく。途中、木とこすれ合ったときは、前後にごうんごうんと揺れて、がんばれ、もう少しだよ、おじいさん! と心のなかで応援していた。
斜面を登った吉野山駅に到着。鉄柱を見ると、昭和3年築と表記があった。
ということは、96歳? 人生の大先輩ではないか。
深く頭を垂れて、ロープウェイの駅舎を後にした。

通りに出てみると、数分前の心配を杞憂と笑うように商店が軒を連ねている。当然である。吉野と云えば、桜咲く四月には10日で30万人が訪れる花見の名所だ。そんな風光明媚な土地に、片手で数えられるほどしかお店がないわけがない。
まったく、もっと常識的に考えてほしいものである。
本当に頼むよ、私。
とひとりごちながら、入ったお茶屋でとろろ山菜そばをいただいた。この日は暑かったので、冷えたお蕎麦は喉越しがよく、美味であった。
ちなみに、私が入るまではお店の電気は消えていたから、閑散期ではあるようだった。

金峯山寺、韋駄天山、吉水神社とお参りしていった。若葉が目にやさしく、ふいに人がいなくなると、虫や鳥の鳴き声が聞こえてくる。
前に本屋で目にした森林浴という言葉を思い出していた。
木々を見ている間は、頭もぽっかり、何も考えていないじぶんがいた。
街を歩いていると、目に映る景色はどれも人の手でデザインされたもので、勝手に情報変換されてしまう。
木々は語らない。訴えてこない。ただ木々のまま、そこにある。

とはいえ、さすがは吉野、生粋の観光地である。気づいたら、くずきりを食べたくなっていた。
恐るべし、看板効果。
峠の茶屋を思わせる風貌に惹かれ、ここに決めた、とのれんをくぐってみれば、これがあるのはうちだけですよ、の誘い文句に引かれるまま、抹茶とくず花を注文していた。
くず花は小豆を透明なくず餅で包んだ和菓子で、目に涼しく、素朴な味をしていた。抹茶もほどよい苦さで、適温がじんわりと体に染みる。
お会計をしていると、小豆も吉野のものなんですよ、とご主人が教えてくれた。

さて、ここらで時刻は昼下がり。
思いがけず、吉野の湯という天然ラジウム温泉を行きの通り沿いに見つけていた。今日は日傘を差すくらい陽が強く、汗もしっかりかいていた。とくれば、ひとっ風呂浴びたくなるのが人情である。
表の看板を見てみれば、謳い文句は「インフィニティ露天風呂、空と山と温泉、その境目を取り払った絶景」とある。
なんだかすごい宣伝文句に、若干腰を低くしてしまったが、結果はいい意味で裏切られた。
露天風呂からの景色は、森閑としていた。空も、山も、生き生きとしているが、色が澄んでいて、目を和ませてくれる。湯船に浸かりながら木々を見ていると、そよそよと枝先の葉が揺れる。葉擦れの音が聞こえるほど激しくはない。でも、見ていると、そよそよという音が聞こえてくる。
間が良く、入浴中はひとりきりだった。
つかの間、風景に浸っていた。

ところで、露天風呂の脇にこんな文言が掲示されていた。

葉っぱさんも虫さんもお風呂が大好きです。
遊びにきたらそっとすくってあげてください。

吉野の湯

遊び心だな~、と犬の頭をなでているような、ふわふわした気持ちになった。
そういえば、先刻訪ねた吉水神社で「一目千本」という文句を目にした。
吉野の桜を端的に表した四文字。
潔し。
名勝に名言あり、である。

締めに、吉野神宮を参拝した。
ここでも「青もみじ」というのぼりを目にした。白地に青竹色の文字が瑞々しい。
静々と青の枝葉を泳がせるもみじたち。そよ風に吹かれて、音もなく、魔法のように葉を揺らしている。
吉野神宮を後にし、駅までつながる坂道を下っていく。足元はアスファルトだが、左右、そして時に頭上を緑に覆われて歩く帰り道は、緑のトンネルと呼べるものだった。
山道を歩いているわけではない。足裏から大地を感じていたわけでもない。
それでも、人家が見えるまでのひとりきりの時間、私は緑の中にいた。
だから、坂道を下りきったとき、こんな言葉が浮かんできたのだと思う。
緑の魔法が解けていく、と。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?