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精神浸食

春になると自殺する人間が多いという。
どうやら気候の変動が人間の精神状態に深い影響を及ぼすらしい。

ずっと家に閉じこもっていて、さすがに出不精の僕でもこれは精神的に良くないな、と思った。そこで外出することにした。だが、どこへ行けばよいのか迷った。こんな時いつもなら街なかを散策するのだが、緊急事態宣言で街に出歩くべきではないだろうし、そもそも駅周辺や繁華街は静まり返っていることだろう。

こうした状況のなか、公園は健康維持に良いと推奨されていたこともあって、僕は近場の森林公園へ行くことにした。


台原森林公園は市街地の近辺にある大規模な公園である。僕は数年前までこの公園の近くに住んでいたのだが、ある噂が気になって一度も行ったことがなかった。

公園に到着すると、駐車場は満車だった。不要不急の外出自粛で散歩くらいしか出来ない現状、考えることは皆同じなのだ。しばらく待つと一台車が出て行ったので、そこに停めて公園へ向かった。

敷地は広大で、約3キロメートルに渡る遊歩道がある。もちろんその途中にも様々な散策路があって一日あってもすべてを制覇するのは困難だろう。とりあえず王道の遊歩道を僕は歩くことにした。遊歩道は一通り公園をぐるりと一周するコースである。

あいにく曇天で春にしては少し寒い。だがまざまざと目の前に繰り広げられる新緑の渦に、自然に疎い僕は圧倒された。鶯の鳴き声や小鳥のさえずりがしきりに聞こえる。森林浴とはこういうものかと初めて知ったような気がした。散歩する人、ジョギングする人、ベンチに腰掛けて本を読む人など、まばらながらに老若男女がそれぞれの時を思い思いに過ごしていた。

大型のブルドッグを連れた、初老の口髭をたくわえた男性が僕とすれ違う時、「こんにちは~」と挨拶した。僕も、「こんにちは」と返したがそれ以上は何も言えなかった。こんな時にも人見知りせず、気軽に話しかけられるようになりたいものだな、と少し悔やんだ。

道の途中で丸々と太った2羽の鳩と出会った。せわしなく頭を小刻みに突き出しながらちょこちょこ歩いては何かをついばんでいた。人に慣れていて、近づいても全く気に留めない様子が可愛らしかった。

遊歩道のちょうど中間地点あたりまで歩くと、中央広場にたどり着いた。大きな花壇がいくつもあって、どれもが綺麗に整えられていた。背の低い緑に囲まれた湖のように大きな池は、さざ波に揺れていた。数羽のカモが水面を緩やかに滑っていた。どこからかトロンボーンとサックスの音色が聞こえた。その音は時折広場に響き渡った。

広場の奥には幅の広く長い階段があった。その階段を高校生くらいの少女が一人で何度も駆け上がっていた。頬を紅潮させた彼女は人目を気にしているようだった。階段を上り下りする人々の視線から逃れた瞬間を狙って、彼女は駆け出すのだった。一人部活の練習をしているのだろう。自分も昔は陸上部だったので、懐かしい心持がした。

僕も階段の最上段まで登って行った。そこから広場を見渡すと、それは立派な庭園のようだった。六角形の花壇が5つほど均等に配置され、その右側には大池が広がっていた。遠くには樹々が青々と茂っており、桜がアクセントを添えていた。その向こう側には黒い山が見え、それらを銀色の空が覆っていた。

少し歩くと屋根付きのベンチに座った学生らしき2人の男女が、トロンボーンとサックスを吹いていた。彼らは同じフレーズを何度も吹いたり、止めたりしていた。吹奏楽の響きは学校の放課後を思い起こさせた。彼女たちの楽器の音色は思いのほか心地よく、僕の心を癒してくれた。

  

広場を抜けて僕は復路の歩道を歩いて行った。次第に空は暗さを増し、雨がポツリと僕の頬を濡らした。傘を差すほどではなかったが、小川にはいくつもの波紋が浮かんでは消えていった。

道の途中に池があった。池の底に設置された細い木橋の上で一羽のカラスが道を塞いでいた。少し薄気味の悪さを感じながら橋の方へ歩いて行くと、カラスは飛び立っていった。

木橋の真ん中あたりで小さな水車がぐるぐる回転していた。近づくと水車の上に「ホタルとメダカの里」と書かれた木の看板があった。ホタル——そういえば、この森林公園は初夏に自然のホタルの光が鑑賞できることで知られていることを思い出した。ホタルは成虫になって約2週間で死ぬらしい。不吉な感覚が僕の頭をよぎり始めた。

池の一番奥側の方に水面からいくつかの白い花が咲いているのを見つけた。近づいてみると、大きく奇妙な形をした花と葉がむっくりと水から姿を現していて不気味だった。白い花が生気を失った大型犬の顔のように見えた。今度は雨粒が僕のまつげを濡らした。

急に風が強さを増し、周囲の樹々が烈しく騒めき始めた。あたりは更に暗さを深めた。歩道の両脇には陰鬱な色をした雑草が生い茂っていた。のみならず散った桜の花びらが、そこらじゅうに落ちていることに僕は気づいた。泥にまみれた雑草の合間合間に、色褪せてふやけた花びらがゴミのように散らばっていた。所々に痩せ細った枯れ木のような樹木がぼんやりと立っていた。

不意に一羽のカラスが灰色の雲で覆われた低い空のさなか、地上近くをするりと横切っていった。あれはさっきのカラスだろうか......。

僕の心はだんだんと重くなっていった。そうだ。ここは自殺の名所——この森林公園は首吊り自殺をする人が後を絶えないと噂されていた。不図そんなことが脳裏を掠めた。

さらに突風が吹くと樹々が一斉に鳴りはためいた。鬱蒼とした森の奥から、深いどよめきが聞こえた。自然という巨大な存在に呑み込まれるような不安感を僕は覚えた。精神が底なしの暗黒に蝕まれていくのを感じた。

再び僕は帰り道を急ぎ、ようやく公園の出入り口へと戻った。そして逃れるように車に乗り込んだ。フロントガラスには、たくさんの水滴がついていて、外の景色はぼやけて崩れそうに見えた。


自宅にたどり着いたときには雨は上がっていた。僕は一息ついたあと、マンションのバルコニーから外を眺めた。そして眼下にひしめき合うたくさんの家を見渡した。細い路地を自転車が駆けていった。遠くにはいくつもの高層ビルが立ち並んでいた。ビルの合間にある一件の小さな家の屋根だけが、眩しく陽の光に照らされていた。

空は晴れ間を覗かせていた。遠くには青い空が見え始めていた。ただその下の方には、今まさに巨大な津波が街じゅうを呑み込むように、恐ろしく大きな雲がどこまでもたなびいていた。


※現在、全国では公園に出歩く人が増加している傾向があるとして、3密を避けた園内での行動を呼びかけている地域もあるようです。私自身も公的機関の要請に注視し、行動して参ります。(4月22日)

最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました!