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冒険的登山と紅葉

僕が登山に求めるのは冒険的要素であり単独行である。
山の個性は登る人によって受け取り方が違い、山とて機嫌がいいときもあれば悪いときもあり、天候ひとつで全く違う表情を見せる。
単独行の良さは、他人のペースに影響されず、自分の好きな速度で歩き、好きなときに休憩を取り、好きな物を食べる。
自分で選んだ山を歩いているとき、その行動はすべて自己責任であり、心から冒険的自由を謳歌することができるのだ。

探検家・作家である角幡唯介の著書『新・冒険論』によると、冒険とは「シムテムの外に出ること」とある。
2021年現在、情報テクノロジーの発達によって我々はシステムの中に組み込まれてしまった。
携帯電話やGPSの普及により、人間の思考や行動を管理・コントロールされている。
ただ機械が命じるままに、何も把握せず、何も認識せず、何も判断せず、夢遊病者のように歩行したり運転したりすることが普通になった。
これは冒険や登山の現場でも当たり前になりつつある。
GPSの登場によって地理的な空間は、全地球規模でデジタルに座標軸化されたのだ。
何度も何度も行為がくりかえされ、やり方が定型化したことで未知の要素が失われ、安全が担保されているのだ。
こうしたマニュアル化現象は、登山の分野で多く見られる。

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紅葉登山5座目は『矢筈山』。
四国山地東部の剣山地の中の祖谷山系の盟主であり、一ノ森に次ぐ徳島県第5位の高峰で四国百名山に選定されている。
下調べはほどほどに・・・、予測できる未来ほどつまらないものはない。
道の先に何があるかわからないから面白いのであって、安心をもたらす予定調和など必要ないのだ。
登山口からは急登の雑木林が続き、一気に体力を消耗する。

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やがて原生林に入り、落ち葉を踏みしめながら高度を上げていく。

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ほとんど人手が加えられたことのない自然のままの森林は、畏敬の念を抱かずにはいられない。

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稜線に出ると、ガスで視界が遮られる。
ここが分岐であり『矢筈山』の古ぼけた看板があるが肝心の矢印が消えている・・・。
右か?左か? もちろん、スマホ(地図)など使わない。
記憶の片隅にある山の形を思い出し、ガスの中に投影する。
左に進んでみよう。

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登山道によくあるケルン。(石を積み上げたもの)
かつて探検家たちは通信手段がなかった為、目立つ場所にケルンを積み上げ、中に記録を残していた。
遭難して捜索隊が来る時に備えて、それまでの行程とこれからの予定をメモに残しておくことは、当時の探検家の最低限の義務だった。
ケルンを崩してみたが、今の時代にメモなどあるはずもなく・・・。

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笹で覆われた稜線は遥か先まで続いているが、道は下りはじめた。
この道で合っているのだろうか? 不安が押し寄せてくる。
登山での遭難で最も多いのが「道迷い」である。
こんな時は「ひき返す」が鉄則であるが、「もうちょっと行ってみよう」と、ずるずる先に進んでしまい、進むほどに引き返すのが億劫になり、深みにハマるのが山岳遭難である。

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「このルートが正解であってほしい」という願望と、「そっちは違うぞ」という危険信号とのせめぎ合い。
風が強くなり、ガスは目まぐるしく旋回し、視界は悪くなる一方である。
登山道から外れてはいないし、時間も余裕もあったのでそのまま進む。
見えた!
「うぉぉぉぉお!」思わず雄たけびを上げる。

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極度の不安と緊張から解放されたが、急に寒気が襲ってきた。
笹の露で膝から下がびしょ濡れになっていて、山頂では雪が舞い始めた。
昼食を一気に胃に押し込み、下山を開始する。
途中から雨になるが軽装備の為、雨具(アウター)など持ち合わせていない。体温を下げぬようハイペースで降りる。

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しっかり準備すればこんな思い?をせずに済んだはずだ。
地図、登山ルート、天気、装備・・・。
しかし、準備すればするほど冒険的要素は失われていく。
管理された領域(システム)から外に出れば、混沌とした世界が広がり自由が得られる。
自由とは自己責任。自力で判断、処理しなければならないので、楽でもなく快適でもない。
でも、僕はそこに価値を求める。

紅葉の下で、次の登山を創造する。

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