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冒険とはシステムの外に出ること(自由論)

かつてアフリカで誕生した原人は世界各地に広がって、その一部は旧人に進化したが、その後、絶滅した。
代わりに生き残ったのは、アフリカに留まっていた旧人集団から進化した新人「ホモサピエンス」だ。
このホモサピエンスの中から少数の冒険者が出てきた。
彼らはリスクをとり未知のサバンナを横断し、海を渡り、獲物がたくさんいる新天地を求めて冒険したのだ。
もし、人類が冒険を忌避し、好奇心と行動力の欠如した生物種だったら、現世人類は今でもアフリカの大森林にとどっまっていたかも知れない。
しかし、人類の歴史上、冒険者が完全に消失した文明や時間は存在しないだろう。
いずれにせよ冒険には一部の人間を惹きつけてやまない魅力がある。

ウェキペディアによると、冒険とは、日常とかけ離れた状況の中で、なんらかの目的のために危険に満ちた体験の中に身を置くこと、とある。

現在冒険と称されている活動は単なるアウトドア活動に毛がはえたものか、野外フィールドで肉体の優劣を競うだけの体力自慢による疑似冒険的スポーツがほとんどである、と喝破するのは冒険家の角幡唯介だ。

彼は2002年と2009年にチベット奥地の大渓谷地帯の無人空白部を単独踏査した。
また、2011年にはカナダ北極圏1600kmを徒歩で踏破した。
こうした行動は、冒険に関心のない一般の人たちにとっては単なる難行苦行にしか思えないだろう。
いったい冒険とは何だろうか。そして冒険から得られるものとは何なのか。
本書は20年以上に渡り、冒険について考察してきた冒険論である。

2021年現在、情報テクノロジーの発達によって我々はシステムの中に組み込まれてしまった。
携帯電話やGPSの普及により、人間の思考や行動を管理・コントロールされている。
ただ機械が命じるままに、何も把握せず、何も認識せず、何も判断せず、夢遊病者のように歩行したり運転したりすることが普通になった。
これは冒険や登山の現場でも当たり前になりつつある。
GPSの登場によって地理的な空間は、全地球規模でデジタルに座標軸化されたのだ。

今ではバラエティー番組の企画で登山とは無縁のタレントがエベレストに挑戦する時代である。
現代のエベレストツアー登山はマニュアル化が進んだ非冒険的な姿である。
何度も何度も行為がくりかえされ、やり方が定型化したことで未知の要素が失われ、安全が担保されているのだ。
こうしたマニュアル化現象は、程度の差そそあれ、世界中のあらゆる分野で見られる。

では、冒険の本質である日常からかけ離れ、危険に満ちた体験に身を置くにはどうしたらいいのか。
それが脱システム、システムの外側にいかにして飛び出すかという観点である。

本書では情報テクノロジーの発達やマニュアル化、つまりシステムから脱した冒険がいかに難しい時代になったかを考察していき、冒険の社会的価値とは何かを論じていく。

システムの中にいる現代人は危険から離れた場所で生活・冒険し、が見えなくなり、が活性化されなくなり、だらだらと時間だけが流れる漂流状態を強いられるようになった。
いいかえれば、現代人は死がまったく感じられないせいで、逆に生きている実感を持つことができなくなったのだ。
その意味で冒険者が冒険するのは死に近づきたいからではなく、生を充実させたいからである。

著者が冒険を通じて伝えたいことは何だろうか。
それは自由を獲得することだ。
システムの外に飛び出す、つまり世間と乖離して自分の倫理を獲得し、独自の言葉の意味を見つけて自立する。
そして外側からの異なる視点を獲得することで、常識を見直し、自明とされてきた既成概念や価値を見直すきっかけが得られるのだ。

著者は管理される状態を望む時代の傾向に抗い、自由には人間が闘ってでも獲得する価値があるという。

本書は現代人に贈る自由論でもある。


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