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秘密の授業: 大学生活の裏に潜んでいた発見 〜部活編 #2〜

強い気持ちを持って始めた大学フットサル。しかし、新型コロナウイルスの影響で辛い時期を過ごすこととなる。大きな決断をし、子どもたちを裏切るような形で入ったにも関わらず、状況は廃部となるかもしれないと思うほど悪化した。

そんな話を#2として今回は大学2年時を振り返る


激減した部員+新入部員ナシ

不本意な引退と代替わり


新型コロナウイルスの影響で体育館が使えない、いつもの「当たり前」が
なくなってしまった。そして、当時の4年生にとって最後の大会も「中止」という連絡が来て、彼らは不完全燃焼で引退した。

それによってキャプテンも代わり、当時2年の私も副キャプテンになった。

なにをすれば良いのか分からなかった。ただ、自分たちは全国優勝を目指しているチーム。やれることをやろうと走りと筋トレをするだけの数ヶ月が
続いた。

何をすりゃ良いんだ


選手のモチベーションが下がっていることは分かっていた。「オンライン筋トレ」と「各自で走りのトレーニングをしてグループに報告」というのを全体練習としてやっていた。でもそんなのサボれるし、ただフットサルを
やりたいんだと思って入った選手も多かったはずだ。

練習に出てこない選手、そして、新しくやりたい事が出来たと言って辞める選手も増えていった。

自分までモチベーションが下がっちゃいけない。副キャプテンという立場に加え、加入を許してくれた監督、子供たちに合わせる顔がないからだった。

でも、どうやって周りのモチベーションを上げれば良いのかわからない
他の選手に「やれよ」と叱ることは何の効力もないと思っていた。

「自分にできる事」として思いついたのは、個人的に連絡を取って近くの公園で一緒にサッカーをすることくらいだった。

状況はさらに悪化し、一つ上の先輩と監督の関係性も徐々に悪くなり、監督から「もうお前がキャプテンをやれ」と言われた事もあった。

でも、自分がキャプテンになるのは違う。こんな状態のチームにみんなが協力してくれる自信がなかった。運営、練習メニューも含め、全て俺に任せっきりになる想像もできた。

キャプテンとしてチームを動かすのではなく、キャプテンを支え、チーム力をあげることの方が得意だという自信もあった。

その答えを出しても、「責任感が無い」と言われる状態だった。コロナを機に監督と選手の間に熱力の差が少しずつ出てきてしまった。

複雑な理由が入り混ざる


熱量の差というのはシンプルに選手の熱量が下がったというだけでなく、現実的に週5回の練習が出来ないという問題からだった。

体育館の時間が変わった

夜の体育館の使用時間が2時間短縮された事から、バイトをしてから練習に来るということが出来なくなった。

家賃や部費など、多くのお金を払わないといけない私たちにとって、バイトをすることは必要不可欠だった。その上、数人のバイト先はコロナで閉店。理由を聞くとどうしようもなかった。

ユニフォームの著作権

何でこんな時期にとも思った。

前の監督がエンブレムの使用を許可しないということでユニフォームを変える必要があった。それに伴い、練習着、ジャージも変えた方が良いとなり、選手の金銭的負担は増えていった。

練習場所の確保

大学の体育館が多くの部活、サークルで取り合いになるため、毎回使えるわけではなかった。そのため、外のフットサル施設を借りることもあり、そのコート代と現地に行くまでの交通費がかかった。


大学からの助成金が当時乏しく、部費からの負担が多かった事から、かなり厳しい状況だった。

どこまでを許すのか


練習を休む生徒が増えると、目標である全国大会優勝からはどんどん離れていく。私は実家生で、中立の立場だったことからどちらの意見も理解
できた。

体育館が使えない時は、外部の施設を使って練習する。
でもそうすると、お金がかなりかかって一人暮らしをしている部員の大きな負担となる。

たまには、バイトの日として休みをとっても良いんじゃないか。

いや、バイト出来ていない選手もいるんだ。休みにするのは勿体無い。

そんなわけで、基本的に練習量はそこまで変わらなかった

でも、お金がないから「バイトで休みます」は許さないといけなかった。

自分が1年の時は絶対にあり得なかった。全員練習に来るのが当たり前だったのに、少人数が当たり前になった。

人数が少ないとできる練習も限られるし、練習の活気も下がる。そんなわけでモチベーションを高く維持できる人は少なかったと思う。

こんな状態で新入生呼べない


個人的に大学1年生の時、縁あって私の大学に入るサッカー経験者と繋がれた事からすぐにフットサル部に誘った。

私たちは推薦で入った選手なんて一人もいないからこそ、ポテンシャルの高い選手を引き抜く、新入部員の歓迎には力を入れないといけないと思っていた。

また、それが全国大会優勝への1番の近道とも思っていた。

その選手たちはコロナ前から練習に来てくれていたが、流石に走りと筋トレだけの練習風景を見せると入ってくれないと思い、コートが使えるまで
あえて待ってもらった。

その上、新規で獲得すべきはずの新入生の歓迎イベントも中止となり、その選手たち以外入部する予定はなかった。

SNSで頑張って声をかけ、他のサークルよりは練習会に来てくれたかもしれないが、体育館が自由に使える状況でもなかった事からポジティブな印象を持ってくれた新入生は少なく、入ると決めた生徒はわずか5人だった。


新入生の勧誘もまともに出来ず、人数も少ない練習。そんな状況で廃部になる想像まで当時はしてしまっていた。


全国大会の代替え大会

チームは良い方向に。。?


コロナが終息に進みつつあった9月頃に全国大会の代替試合が開催されることが決まった。

当時の4年生が戻るかどうかという議論はかなりしていたみたいだが、3人の素晴らしい選手が帰って来て、チームはプラスの方向にまた進み出した。

技術的、精神的に支柱となる選手が帰ってくることは個人的にはとても心強かった。

その内の1人が同じポジションのGKの先輩。当然だが、ポジションを渡す気は無かった。

コロナ中も自分を律し、トレーニングを積んできた私に対して、その大会が開催されることが決まってトレーニングを再開したような選手では差があることは明らかだ。

しかし、戻ってくることが決まってすぎた1ヶ月、福岡県大会でスタメンに選ばれたのは先輩のGK。
九州大会もその人がメインでゴールを守った。

悪いのは自分だと思う大切さ


本当に悔しかった。そして、監督に怒りも感じた。


ただ、様々な困難に出会ってきたおかげで精神的に成長していたのだろう。その怒りを監督に向けるのではなく、自分に向ける事が出来た。

自分に圧倒的な能力、誰が見ても俺を使うだろうというパフォーマンスをしてれば他の選手がその不平を監督に言うだろう。

その圧倒的な差が無いと分かっていたから監督に自分から不平を言う事は無かった。

そして、自分が監督の立場になった時、俺もその先輩を使うかもしれない。

その基準は「どっちを使って負けた時、より後悔するか」だった。
これが正解かどうかは分からないが、そう解釈し、チームの黒子に徹した。

チャンスは絶対来る


決して不貞腐れず、ベンチから出来る事をやり続け、いつでも出れる準備もしていた。

その九州大会までの行動を見ていたのか、監督が私を信じ、ワンポイントで使ってくれた。

準備をしていたからこそ、準決勝でプロ3人いるチームに引き分け、PKも止めれた。

勝因は他にあった


当然準備をしていたのは私だけではない。当時の四年生のキャプテン。その人は私が入部した時からだが、誰よりも上手いのに誰よりも練習し、チームを勝たせていた。

それはピッチ外でも。大会の運営、練習メニュー、監督とのコミュニケーションなどなど、見えていない部分もおそらくたくさんあった。

自分がなりたくない形かもしれないけど、「全てやる」タイプのリーダーだった。チームの事を1番考え、大学生活の中心にその部活を置いていた。

そういう人がやっぱり全国でも1番活躍した

全国大会優勝に一本届かず、結果は準優勝だった。当時のフットサルに対するモチベーションの状態はバラバラだったが、私を含めた数人の選手は非常に高いモチベーションでやれていたと思う。

全国優勝出来なかった理由はそれが全員じゃ無かった事

1年生の時に感じたモチベーションの高さとは大きく異なっていた。そもそもサッカーの能力が低い選手が多い公立大学のチームでは、それがないと絶対に無理だと実感した。


全国大会準優勝でチームはまたプラスの方向に進むと思っていた。そして、私にとって最後の大会が近づいてきた。

次の最後の#3で残りの全て。「大学生が部活をやる意味」にも触れていく


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