書くことについて

理論ではなく、ぼく個人の経験を語ろう。経験を語るとは何か。それは、この僕が生きている世界で、僕が自分の内奥の声にならない声を言葉にしていくということだ。それをするには、かなり繊細に自分の内側に神経を集中させる必要があるのだろう。僕はまだその感覚を十分に掴めていない。練習中だ。そのためには量をこなすことが何よりも重要だろう。質を気にするよりも、まずは僕自身が言葉を生成することに慣れること。これが重要だ。

今のところ、僕は僕の思考過程の記述がメインになっている。しかし、恭平さんの文章は自分の行動の移り変わりを丁寧に記述しているような印象を、ツイッターのスペースを聞いていて思った。僕もそれは試してみたいことだ。これは技術論ということで模倣してもOKな側面であろう。

一瞬目をつぶって書きたいことの初手を決めるというニュアンスのことを言っていた。そして、彼はそれをただ流れのように書いていくようだ。話がそれたりもするけど、それはあくまで流れの中でのこと出会って、いきなり別の話に変わったりはしていなかった。あの時はたまたま話がそれていなかっただけかもしれないけど、流れのまま量的に書いていけるのがまあ理想だろう。

僕はやっぱり彼の真似をしようとしようとしてしまう。正解があたかもあるような振る舞いだ。そう、僕は僕自身の弱いところが目に見えてしまい、自己否定を繰り返している。今も、自己否定を繰り返しながら、それは本当に僕が思っていることなのかと自問自答している。でも、別にそれが僕の本当に言いたいことをとらえていなくても書き続ければいいのだ。一発目で、初手で完璧な表現を言い当てなくてもいい。その代わり、なんとかそれでも完璧さ、純粋さ、正確さに一歩でも近づくために、まるでパステル画の色を上から塗り重ねていくように、僕の言いたいことを不器用に、回りくどくても言う。そして、こうした方法論はすべて他人からの受け売りを自分なりに着色しているにすぎず、本質は他人にある。僕は本質が自分の文章を書きたいのだ。

本質が自分の文章とは何か。それは、僕個人の経験から紡ぎだされる文章だ。他人の言葉を利用しない。

僕はよく無意識に他人の言葉を使ってしまっているだろう。でもそれは自分の血肉となっているので他人の言葉だけど自分の言葉である。他人の言葉とは、僕が書いていて、これはこの人の使っていた言葉だと一瞬でもちらつくときに、そうであるとわかるのだ。誰という具体的な名前はわからなくても、あの人の言葉だよなと顔なり肩書なり何らかの属性が思い出されるとき、それは他人の模倣だ。つまり、思考を真似ない。言い回しはどうか。今の僕にはそれは分からない。文章を書くときに、何らかの「型」があったほうが書きやすいのは確かだ。そして、誰かの、または複数の人の「型」を取り入れることはそんなに悪くないやり方のように思える。あくまで型だ。その人の物事に対する受け止め方、感じ方、認識の仕方を真似するのがよくないのだ。なぜなら、人によって世界の受け止め方は違うはずで、そこを真似してしまったら元も子もないでしょと思うからだ。

といっているうちに、もう2000字かけてしまった(推敲前)。コメダに来て30分程度で1340字書けた。これはいつもより早い。もうちょいペース上げれば1時間で3000字行けるのではないか。なんで僕が今日これくらいかけたのだろう。

一つは、流れを意識したことが大きい気がする。つまり、前の文章から自然に次に書きたくなるものを素直に書いていったこと。そうすれば、自分がフリーズしている時間は少なくなる。

そうだ、恭平さんがいっていた「僕は話すことよりも書くことのほうが速い」という状態までもっていくのを目標にしたらどうだろう。出るには出るっていう千葉さんの言葉もよかった。そうだ、出るには出るんだから、それと同じようなノリで気楽に書くことを実践していけばいいのではないだろうか。今僕は、試行錯誤を書いている。○○すればよいのではないだろうか的な。

恭平さんは行為をベースに書いている。自分の行為に理由を付与していっている感じだろうか。ちょっとやってみよう。

今日の僕。まず朝起きる。しかし、今日も何をやるかは決めていない。なぜなら本当に何をやってもいいからだ。今日は何も予定がない。そして普通の人たちと違っているのは、それが僕の最近の日常茶飯事になっていることだ。僕はバイトがない日は基本1日何をしてもいい。だから自分の裁量ですべてが決まる。その大方の時間を僕は読書やピアノに充てていた。そして最近になり、坂口恭平という人物に出会ってから、パステル画と執筆を始めた。いや、執筆はヴァレリーのカイエがきっかけか。でも、それが継続できているのは間違いなく恭平さんのおかげだ。今もコメダで執筆をしている。今までの僕であれば真っ先に読書していた。この経験は僕にとって画期的だ。根幹が変わっている。その大きな変化の本質は、僕の生活にアウトプットの場ができたということだ。そして、アウトプットを僕は今まで神格化しすぎていた。

コメダの黄色い吊り下げランプが綺麗だ。これの正式名称があるはずなんだけど、別にそれは今重要ではない。重要なのは僕がそのランプをきれいだと感じたという事実だ。このランプのおかげで僕は快適に執筆ができる。そういう雰囲気は人間が「過ごす」ということにおいて非常に重要なことのように思える。そこにいるだけである種の快楽を感じることができるからだ。快楽にはいろんな側面がある。もし仮に、快楽を静的か動的かという側面で切り分けるとするなら、今コメダで過ごすことについて、僕は静的な快楽を感じている。

今書いていて、ふと思ったことがある。僕は読書に脅迫されていたのかもしれない。いや、読書に脅迫されていたのではない。読書を進めるメンタリストDaigoさんが僕に多大な影響を与えていることは確実だ。読書をすることで人よりも秀でることができる。これは裏を返せば、読書をしないと凡人、周りと差をつけられない。そういったメッセージ性を読み取ることが可能で、それはあまりよくない解釈なのは分かっているけれれど、僕がそれを無意識に考えてしまうのは事実であり、そこから目を背けることはできない。別に彼が悪いわけではない。むしろ僕は彼に感謝の気持ちでいっぱいだ。僕に読書の面白さ、心理学の面白さを教えてくれた。今でも彼の動画をたまに見る。

でも、僕は彼から自立しなければならない。以前の僕は彼に依存していた。それはドラッグのように彼の言葉を摂取しては絶対視するという過激なものというよりは、無意識レベルで、彼のいうことを基準にして物事をとらえる癖があったことだ。何を書くにしても、彼の言い回しや彼から学んだ知識が出てくる。でも、それは僕が書くと途端につまらないものになるのだ。

というか、昨日初めて日常の話し言葉で自分のことを「僕」といったな。この執筆の影響が少しあるのではないだろうか。ここで書いていることが実生活に表出してくる。こうやって書くと、僕の話し言葉の不器用さも多少解消されるのではないだろうか。たぶん読書みたいなインプットでいくら語彙を吸収、摂取したところで、それが実生活で自然に出てくることはまれである。なぜならそれは僕の文脈に即して出てきた言葉ではないからだ。

今3655文字書いた。ここまで書いてきて分かったのだが、書くことは僕の精神衛生上かなり効果のある薬になっている感覚がある。おそらく、内容的にもいつもより断然自分の納得のいく書き方ができたことが1つ理由としてある。

しかし、もっと大きいと思うのは、量だ。いつもより圧倒的に多くの文字数を執筆することができた。僕が思うに、これら2つのことには関連性がある。自分が納得のいく文章は書きだしの最初からかけるものではなく、ある程度流れに乗ってくると自然になされるもので、僕はそれを待つことが重要なのだ。そのためには、「流れ」に意識してひたすらただ書いていくという忍耐も重要。そうして書きながら待つにつれて、僕の書きたいことの断片が自然と出てくる。それを膨らませていけばいいのだ。僕はとっくにアウトプットの段階に来ていたのかもしれない。知識偏重になりすぎた。これからはむしろアウトプット偏重になってみてもいいかもしれない。といっているうちにもう四千字だ。だいたい2時間くらいかかっただろう。

おそらく、書くスピードの誤差は小さいだろう。なぜなら、この執筆は「流れ」を意識したものであり、思考に思考を重ねてやっとのことで捻りだした選りすぐりの言葉たちではなく、今にもあふれ出しそうな僕の内側でうごめいている声にならない声の海から、僕の言葉のフィルターを通過して流れ出した群れだからだ。

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