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出産は誰でも命がけ(長男編)

緊急事態宣言が出てしばらく経った頃、私が出産で長期入院となった時に仲良くなった10年来の友達から、三人目を授かった報告を受けた。
ふと自分の子供たちを取り上げてくれたドクターは今どうしているのかなと思って母子手帳を取り出し、ネットで検索してみた。

私は実家が地方なので一人目は迷うことなく里帰り出産と決めていた。地元で有名な産院で出産しようと事前に連絡を入れ、年明け早々に受診することになっていた。
1月3日。32週5日。軽く初売りでも行ってみる?と準備をしながらトイレに行くとダーッと流れる液体。
え?!なにこれ。母に話すと、それ破水だよ!病院に電話して!
電話して説明すると、週数がまだ経っていなくてここでの出産は難しい。大学病院に連絡しておくからそちらへ行ってください、とのこと。
正直、大学病院よりも少し実家から近い県立病院で良くないか?と思ったが言われた通り大学病院へ。年明けすぐの救急は結構混んでいて、待たされた記憶がある。

担当のドクターは初っ端から言った。
あぁ、あなたでしたか。実はね、○○先生(出産予定だった産院の院長先生)と先ほどまでお茶をしていたんですよ。そしたらね、あなたから電話があったと連絡がね、○○先生のところにきてね。週数が足りないからうちでは出産できない。だからそちらの大学病院を紹介したよ。里帰り出産の妊婦さんが行くよ。って言われたんですよ、と。

その後2日粘ってみたが、結局帝王切開になった。
帝王切開か。帝王切開の可能性も受診した時から言われていたけれど、特に恐怖とかそういったものは一切なかった。私自身が帝王切開で生まれていて母の傷口を小さい時によく見ていたし、話も聞いていたからかもしれない。普通分娩にこだわる妊婦さんもいらっしゃると聞いたことがあるけれど、私はそんなことは全くなくて、無事に生まれるなら何でも良かった。
私が初産だったからだろうか。看護師さんは、担当の先生は優秀な先生だから安心してね、と声をかけてくれた。
そのドクターは、切り方は縦がいい?横がいい?と聞いてくれて(水着を着た時に傷口が見える見えないの違いがある。)私は赤ちゃんが無事な方でとお願いしたけれど、じゃあ横で行くよ。お腹も小さいほうだから大丈夫だよ。とおっしゃってくれた。

手術室に入ってから出るまで約30分。とにかくあっという間。
手術なので夫の立ち合いはもちろんできなかったけれど、手術室を出たところで待っていてくれた夫や両親たちにも会えた。私の両親と義母はヤクルトで乾杯していて笑えた。

入院してから出産まで、私は痛みや陣痛等は全くなかった。待機している二日の間ずっとモニターを付けていたが、今少し張ってますね、痛くないですかと言われてもちっとも痛いと思わなかった。大体、張ってるって何?というくらいな感じで、里帰りして実家でゆっくりしている間に出産の勉強でもしようかなくらいにのんびりしていた私は、出産についての知識を詳しく持ち合わせていなかった。さらに荷物になるから帰省してから買えばいいかと思っていたので、生まれてくる子供の産着の一枚でさえ用意していない始末だった。今思うと本当にとんでもない妊婦だ。
破水したにもかかわらず、陣痛が来るわけでもない。週数が少ないからまだできるだけお腹で育ててあげたいけれど、赤ちゃんが弱っていってしまうので帝王切開で取り上げましょう、ということだったと思う。
こうして出産の痛みも醍醐味も味わうことなく、出産。ちょっと世の中の妊婦さんに申し訳ない気持ちになったけれど、まぁいっか。と楽観的だった。

しかし、激痛は翌日の歩いて診察室まで行くよ、という時に来た。まず、自力で起き上がれない。ベッドから足を下ろして歩く?無理無理。結局、車椅子で診察室へ。当然、痛み止めを処方された。
でも、後にも先にも痛かったのはこの時だけ。抜糸ももちろん痛くなかったし、この時に対応してくれたのは担当医とは別のドクターだったけれど、こんなきれいな傷口見たの、数年ぶりだよ。と言われた。

そして。長男出産のときの担当医を調べてみた結果。
現在は宮城県立こども病院産科科長をされている室月淳先生という方だった。どうやら、ドラマ「コウノドリ」で取材協力もされたらしい。救急で入院し、二日後に手術だったのでお会いした回数はそう多くはなかったけれど、母子手帳の名前の記載と先生のお顔を夫婦で確認して、うん。この先生だったねとなった。
今年に入ってから著書も出されていたようで、さっそく購入して読んでいる。


そんな優秀なドクターとの出会いも含め、長男の時の出産はすべてにおいてラッキーだった。
小さく生まれて数カ月NICUのお世話になった反面、早々に退院した私は毎日搾乳した冷凍母乳をもって病院に通った。この時私の父は早期退職をしていてのんびりした生活を送っていたので、私の毎日の送迎を喜んで引き受けてくれた。毎日牛のように出る母乳をせっせと搾乳し、実家の冷凍庫を私の母乳で埋めるというくらいまで母乳には恵まれたが、肝心の長男に母乳性黄疸が出て、母乳がストップになった。2台も搾乳器を購入して痛い思いをしながら絞り出した大量の冷凍母乳は1カ月ほど実家の冷凍庫に鎮座していたが、泣く泣く解凍して捨てた虚しさは残った。
でも絶対完全母乳で育てる、という気持ちはもともとなかったし、少なくとも2週間は母乳を飲ませた。多少なりとも免疫力はついたはず。とにかくミルクでもなんでも飲んでくれれば良いとすぐ割り切った。
よくミルクを飲む子だったけれど、吐き戻しも酷くて胃食道逆流と診断され、ミルクの粘調度を上げた。この時使ったミルクはまだ認可前の繊維質が高い高粘度ミルクで、病院から1年ほど支給していただいた。

おかげさまで県内トップの大学病院で手厚い看護の元、無事にすくすく育ってくれた。たくさんのチューブにつながれた保育器の中の長男に初めて会いに行ったときには、小さく産んでごめんねと涙したけれど。
あれから15年。今ではこの子、未熟児だったんだよねと言うと、100%驚かれるくらいには成長したと思う。

妊娠から出産まで、無事に楽しく妊娠生活を送ることができる妊婦さんはたくさんいるだろう。でも、妊娠までも大変、妊娠してからも大変、出産も命がけ、そんな妊婦さんも実はたくさんいる。妊娠出産が身近な話になった時、出産は命がけなんだということを、男女問わず頭の片隅に置いておいてほしい。妊娠を望んでいる人や妊娠中の人に対して、すべての人が優しい気持ちで接してあげられますように。


次に私が次男を出産するとき、長男の時よりも深刻な妊娠出産となった。現代の医療技術がなかったら、私も次男もこの世にはいなかっただろう。
そのお話はまた、いつか改めて。

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