アイデンティティはどこにある?

前置き


 私は女性で、20代。ありがたいことにそれに抵抗や違和感はなく、事実が事実としてあるのみである。
ただそれを切り取られると、
そこに私の本質、アイデンティティはないのだ。


会社員時代のエピソード


 大学を卒業後、社会人として会社勤めをした。男性の多い業界で、女性はどの現場に行っても数えるくらい、同年代の女性はもっと少なかった。
 ある現場で、6名でチームを組んだ。女性は私一人だった。だからといって、男女の差が出るような仕事でもなかったので問題はなかった。その中の最年長の男性が大変面倒見がよく、仕事でお世話になり、先輩として尊敬していた。仕事外でも時々そのチームの数名で食事にも行ったり、仕事の都合上2人で出張の折には食事やお茶もしたりするほど良くしてもらった。転職で悩んだ折にも背中を押してくれたのはその人だった。「自分のライフプランを優先しなさい」と私の選択を応援してくれていた。
 転職が決まった折、その人と最後の出張を終え、お茶をしていたときのことだった。「寂しくなるね、お茶友達がいなくなって」と言ってくれた。嬉しかったのだが、私は「〇〇もいますよ」と他のメンバーを挙げた。もちろん、私の返しは良くなかった。せっかく寂しくなると言っているのだから素直に受け取ればよかった。それに対して、その人は「どうせなら俺だって若い女の子とお茶したいよ」と言った。多分軽口だったのかもしれない。だが、私はこの発言にもやっとした。

・・・

考察


 もやっとした正体は何だったのか。私はその先輩の人柄や仕事の価値観を尊敬し、だから仕事外でもその人と過ごすことに価値を見出していた。だが、その人は私と過ごす価値を若い女性という部分に見出していたことが嫌だったのだろう。

 小難しく書いたが、若い女性だったら誰でもいいのかよ、ということだ。要は拗ねたのだ。若い女性なんていくらでもいる。代わりがいて、私じゃなくてもいいのね、と。とっさに挙げる私の価値は性別と年齢だったのね、ということだ。

大変面倒くさい思考である。でも、ここで私は「若い」「女性」ということに自分で価値を置いていないという気づきを得た。

デイケアでのエピソード


 会社を辞め、デイケアに通うようになった。デイケアは今の日本を反映したように年齢層がかなり高めであった。20代の女性は見当たらなかった。本当は年の近い友人ができればいいと思っていたが、希望通りには行かないものである。年の離れた友人はたくさんでき、可愛がってもらっている。

 時間ができるようになってから、私は趣味として編み物(かぎ針編み、レース編み)をするようになった。デイケアでも時間を見つけて編んでいた。そもそも友達も少ないのもあるだろうが、これまで編み物を趣味とする人が周りにいなかった。そしてデイケアの人たちも編み物をしない人ばかりだったので、編み物をしている私を手放しで褒めてくれた。それはきっと、「なんかよくわからないけど、自分にできないことをしているな、すごーい」という感想だった。
 でも、私は別に褒めてくれなくていいから(褒められれば嬉しいが)、編み物の話をああでもないこうでもないと、切磋琢磨できる友人が欲しかった。そしてできるなら、自分の作品を編み物を知っている人に批評してほしかった。これはなかなかに難しい希望であることは重々分かっていた。

 デイケアに通い始めて2ヶ月くらいのときに、Sさんという70〜80代くらい方と出会った。その方はレース編みをする方だった。初めて会ったときにSさんはレース編みをしていて、私から声をかけた。Sさんは素敵な作品を編んでいて、また会いたいと思ったので次回会う約束を取り付けた。

 次に会ったときに自分の作品をデイケアに持っていき、見てもらった。Sさんは私の作品をよく見て、「良い仕事をするね。」と褒めてくださった。嬉しかった。編み物を分かっている方の言葉だった。これは今まで編み物を褒めてくれた人のどんな褒め言葉より嬉しかった。本当に価値の分かる人に褒めてもらえた。重みがある褒め言葉だった。

 Sさんの作品も見せてもらった。うっとりとため息が出るような作品だった。感想を伝えるとSさんも嬉しそうだった。こうして願っていた編み物をする友達ができた。

 ある夏の暑い日、あまりに暑いので、デイケア帰りにSさんと二人でカフェに避暑することにした。Sさんは足が悪く、杖をついている。歩くのもゆっくりだ。それでも、私はSさんと過ごしたいと思ったので、歩調を合わせて歩き、暑くないように日傘を差し掛け、近場のカフェへ行った。

 カフェに入って色々な話をした。久しぶりにする、友だちとカフェに入ってのおしゃべり。とても楽しかった。

 楽しかったのだが。

 文脈は何だったか。忘れてしまったが、Sさんが会話の流れで「こんな若い人とおしゃべりする機会はない、若い人と話をするのは楽しいわ」と言った。私はそうですか、良かったですと答えたが、心の一部がすぅと冷え、悲しい気持ちになった。

・・・

考察

 また同じ思考だった。私の価値は若いことなのか。私はSさんだから、友だちだと思ったから。尊敬できる、一緒にいて楽しい、年齢なんて関係ないと思ったのに。あなたは私を見てくれていなかったのね。そんな気持ちになった。

 他のデイケアの人も時々言うのだ。若い子と話ができて嬉しい。高齢の男性なんかは隣にいてくれるだけで嬉しい。別に浅い交流の人から見れば、私の価値なんてそんなものだろう。私が本当に理解してほしいと思っていなければ、それでも構わない。”若い”、”女性”という記号に価値を見出す人が一部いるのは否定できない。

 会社時代のときも、今も、私は心を許した人から若い女性以上の価値を見出されていなかったことをすごく残念に思ったようだ。

アイデンティティはどこにある?

若い、女性、がそんなに価値があるのか。
若干憤りもした。
若い、女性、がそんなに有り難いか。

一部の人から見れば、価値のあるものなのかもしれない。それはきっと今の社会では少なからずそうだ。

だが、そんなものは私の上っ面でしかない。
私のアイデンティティはそんなところにはない。

では、私のアイデンティティはどこにあるのか?
面倒くさい私はどこを切り取られれば、満足するのか?

若さはいつか消えてしまうものだ。そして私が努力して得たものではない。
女性であることは変えようと思っていないので、変わらないと思う。
が、これも私が努力して手に入れたものではない。

そんないつか消える、努力していない、代わりのあるものに価値を見出されるのが嫌いなのだと思う。

逆に言えば、
私の固有のもの、努力して得たものが
私のアイデンティティなのだろう。

そして、そこに価値を見出してほしい。

そう願っているのではないのだろうか。

では具体的に
私のアイデンティティとはどこにあるのか?

私のどこが好き?

 「私のどこが好き?」というのは面倒くさい質問だと思っている。
そんなの質問者が望む答えをしなければ、不機嫌になることが往々にしてある、良くない問いだ(個人の主観である)。
 だが、私が今しようとしているのは、この質問の答えを自分で作ろうとしているようなものなのかもしれない。というか、私の2つのエピソードで不快になったのは、聞いてもないこの面倒くさい問いに望まない答えをされたと怒っているだけなのかもしれない。

 更に言うと、お付き合いや結婚の折によく第三者から「お相手の好きなところは?」という質問がある。この質問も私は好かない。
 答え次第によって、これも相手が不機嫌になりかねない。質問した第三者は二人の間に水を差したいのかと疑ってしまうが、昔からある、ただ盛り上げようというだけの悪気のない質問なのだろう。

 私も結婚の折に旦那の好きなところを聞かれた覚えがあるが、なんと答えたのだったか。今答えるとしたらなんだろうか、と考える。
性格か、考え方か、顔も好きだけど、そこが一番ではないし…。

 質問に制約がないため、いくつ答えても良いのかもしれない。だがあえて、一つに絞ろうすると、答えが見つからない。一つ見つけたとしても、その答えは間違っていないが、一つに絞るとなんだか違う気がして…。
 そこできっと一言では相手を言い表せられないのだろうと気がつく。色々な要素が合わさったのがその人であり、それを一つに絞ってしまうと、その人ではなくなってしまうから、それが本当に好きなところではないと思うのだろう。

 上に挙げた2つのよく聞く質問、「どこが好き?」の最適解を出すとしたらおそらく、本人のアイデンティティを答えることなのだと思う。
 よく知る旦那の好きなところを一つに絞れないように、アイデンティティは一言で言い表せるものではない。色々な要素が複合的に絡み合っているのだ。どれか一つを抽出することが間違いなのだろう。
 だが、アイデンティティを絞って表現しなければ行けない場面は少なからずある。(就活やプロフィールなど)そういった場面で考えると、とりあえず誰から見ても不変の”年齢”と”性別”というのは分かりやすい価値なのかもしれない。

 それでも旦那に聞けば、私のアイデンティティを「若い」「女性」には置かない。それは私を深く知っていて、他との区別した固有の認識があるからに他ならない。

 なので、私が不満に思ったエピソードの相手は、私に対する深い認識がない相手だったか、不変の事実を述べただけで深い意味はなかったのだろう。どちらにしても、私が勝手に強い期待をしてしまっただけだったのだ。



私のアイデンティティ


私のアイデンティティは若さでも、女性であることでもない。

ただどちらも事実だ。

私のアイデンティティは一言で言い合わせられない。

そんな薄い人間ではないからだ。

自分のアイデンティティをあえて一言で言い表すとしたらなんだろうか。

しばらく考えてみようと思う。



あなたのアイデンティティはどこにありますか?

少し考えてみると、自分の価値観が分かって面白いかもしれません。




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