イメージから探るコミュニティの意味
コミュニティ
と聞いて、何をイメージするだろうか?
先日、テラコ学校のワークショップでも同じテーマで話し合った。
その時の意見としては、会社や学校などの集まりという意見が多かった。
少数派はネット上の繋がり。会社はコミュニティではないと言った反対意見もあった。
さらに言うと、学校という意見の中にも「クラス」や「部活」など、細分化されている意見に対して、賛成が多く集まっていた。
コミュニティの定義
辞書で「コミュニティ」という言葉を引くと、
必ずと言っていいほど「地域」という言葉も出てくる。
アメリカの社会学者マッキーバーは、コミュニティを「一定の地域において営まれる共同生活(common life)」と定義しているという。
これは地域という共同性(地縁)によって集まり、
その地域の資源を共有することで共同生活を営む集団と言ったところだろうか。
しかし、
先のワークショップでは、「地域」という意見は出てこなかった。
さらに言うと、前回の記事で取り上げたアソシエーションに対するコミュニティという意味で考えると、共同生活をしている訳ではない集まりもコミュニティと捉えることができる。
(地元の友達など)
また、人が集まる契機もインターネットによってかなり増え、複雑化してきている。
いまや「コミュニティ」という言葉は、マッキーバーが考えた定義よりも広い概念になってしまったのだろうか。
「承認」、「受容」
先のワークショップの際、
「コミュニティの機能」というテーマでも意見を募っていた。
その議論の中では「承認」や「受容」と言った意見があった。
こう言った機能は、辞書的なコミュニティ定義には出てこなかった言葉だが、
「コミュニティ」という言葉のイメージから意見交換し、
こういった「つながり」を連想させる言葉が出てくるのは興味深い。
この意見交換で、それぞれが思うコミュニティに対するイメージが定義から乖離していることが見れたことも、個人的な大きな気づきだった。
定義も大事だが、
それぞれが持っている「コミュニティ像」こそ、実情を反映しているのではないか。
個人的には、このコミュニティ像はニーズの現れなのではないかと思う。
「承認」や「受容」を得られることを、
「コミュニティ」という地域でも家族でもない、別の繋がりに求めている結果にも思えてくる。
いずれにしてもこの「コミュニティ像」が、現代の新しいコミュニティ概念を作っていくのだろう。
「コミュニティ」という言葉は、定義よりもニーズによって認識されていると言える。
さて、そんなコミュニティという集団。
実際にそのニーズを満たせる集団とはどんな集団なのだろう。
「承認」や「受容」、繋がりを得られるというのはどういう状態なのか。
その集団に属したからと言って、自動的に得られる物なのだろうか。
もしそうであれば、「与える者」「与えられる者」の関係性が生まれてしまう。
これはアンバランスであり、何か殺伐としたものが生まれてしまいそうだ。
なんとなく、コミュニティという関係の中は対等であって欲しいと思う。
次に、コミュニティの互酬性について考えてみよう。
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