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コミュニティとアソシエーションで考える社会とのつながり

社会
と聞くと、制度とか手続きとか、何やらとても複雑な響きがする。

加えて暗いニュースが多い昨今、なんとなく社会と言う物から目を背けて、
身の回りのことに気を配りたい思いもある。
そんな背景もあり、社会というものを身近に感じづらいかもしれない。

しかし単純に考えると、社会は集団によって作られていると捉えられる。
そしてその集団にも様々な形がある

コミュニティとアソシエーション

「コミュニティ」という言葉は、最近特に目にする機会が多いことと思う。
もちろんコミュニティも集団のひとつの形態だが、コミュニティと対置される形態として、
「アソシエーション」という形態がある。

この対置を作ったアメリカの社会学者であるマッキーバーによれば、

コミュニティとは共同性、地域性の二つの契機によって生まれる集団
アソシエーションとは、ある目的のために集まり生まれた集団

としているようだ。

例えばコミュニティとは、どんな集団が考えられるだろうか。

子供時代を思い出してみると、
僕が子供のころは、近所の同世代の子供たちが自然に友達になっていた。
これは「同じ地域」「同じ世代」という共同性、地域性から生まれた、
「友達」というコミュニティと捉えられる。

ではアソシエーションはどうだろう?

その目的を達成するために集まる(または集められる)集団は、アソシエーションと捉えらえれる。
分かりやすい例は会社だろう。
会社は「利潤を追求する」という目的に集まった集団だ。
興味深いのは、会社は人為的に作れるという点だろう。
目的を設定し、それを達成するための構成員を集めれば、
その集団はアソシエーションと言える。つまり、人為的に作れる。
同時に、解体も再構築もできる。
そう言うと、少し寂しい印象も受けるのではないか。

近代的な国家や都市もアソシエーションとして捉えられる。

では家族は?

コミュニティとアソシエーションを対置させたマッキーバーは、
国家、家族をもアソシエーションとして理解しようとしたらしい。

家族をアソシエーション的に説明するとしたら、
どのような説明になるか?
せっかくだから、みなさん考えてみて欲しい。

アソシエーション化する社会

そしてさらに考えを進めてみると、
アソシエーションとして捉えられる集団は多いように感じられないだろうか。

個人的には、そのような”集まり”は、増えたように思う。

これは地域性や共同性と言った「地縁」から、
「目的」によって集まる社会に変わって行ってしまっているのかもしれない。

逆に言うと、あらゆる集まりには目的が必要なのだろうか?

目的のない集まりがなくなってしまったら、
どのように関係を作ればいいのだろうか?

言うまでもなく”私たち”も、社会と言う集団の一部である。

その集団の大部分がアソシエーションであるなら、
その集団への参加の仕方、関係の作り方は、昔のままなのだろうか。

「近所だから」という共同性だけで、近所というコミュニティと関係を作れた時代は終わってしまったのか?

これは、
寂しさを超えた新しい問題を孕んでいるように感じる。

個人的には、
「コミュニティ」という言葉が世間に溢れるようになった背景には、
この問題を危惧するニーズなのかと思う。

僕たちは、コミュニティと言う言葉に何を期待するのだろうか。

逆に言うと、その期待に答えてくれる物をコミュニティと呼んでいるのだろうか。

次に、コミュニティについて考えてみることにしよう。


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