恋するピアノ#06

正直な気持ちで言うと
どんな大学生活における日々や
どんな授業よりも土曜の2限の
ひかるとの時間は
僕の楽しみになっていた。
いつも僕よりも先にそこにいて
決まってピアノの前に座っている。
だけど彼女のピアノは聴いたことがなかった。入る前に聴こえてくることもなかった。
音楽はやりたいときに好きなように自由に
それがいちばんの音楽の魅力だと楽しさだと
思っていたから、弾いてほしいと
僕から言うこともなかった。
いつもの時間、サークルに顔を出す。
彼女はヘッドホンをしてピアノを弾いていた。綺麗な旋律を奏でていた。
初めてそのグランドピアノの音を聴いた。
入り口と背を向ける形でそれは配置
されていた為、僕の存在に気づいてないようだった。
しばらくの時間、聴き入っていた。
彼女はふと、その手をとめて
振り向いた。
「あれ?いたの?もしかして聴いてた?」
「うん、聴いてた。」
「下手なピアノでしょ、見られたくなかったなあ。」
「いや僕はピアノは触ったこともないし、生でグランドピアノの音を聴くこともそうそうない。聴き入ってたよ。」
「音ってさ、楽器を奏でた音って、その人の心とか、その時の心持ちがすごく反映されるんじゃないかなあと思うんだ。」
「わかる。僕はすごく感情的にギターをかき鳴らすことが多いから。」
「私もそうなんだ。アンダンテ、ダカーポ、クレッシェンド。フォルテ。ピアノの譜面にはそんなのばっかり並んでる。でもそれは
作った人がそうしてほしいってだけで、弾き手がどう弾くかは自由だと思うんだ。」
「僕なんてそもそもコード改変してるよ。弾き語りしても歌詞の音程なんて参考程度にしかしてない。」
「そうだよね。私達の好きにしていいよね。だって譜面通り弾くことはある程度誰だってできることだから。」
「うん、カバーするにしても、本人に寄せることもできるけど、そこには自分の色はない。そんなことするくらいなら僕は音楽の本質を見失ってるんじゃないかと思う。」
「ちひろとは気が合いますなあ。」
無邪気な笑顔を浮かべながら彼女が言った。
僕もそう思っていた。けど口には出さず
頷いた。
「私が生まれて初めて買ったCDなんだと思う?」
と、唐突な質問が来た。


暫し、考えた。
「宇多田ヒカル?」
「うん、あってる。でもオートマティックじゃないよ。」
それから数秒の沈黙があり、
彼女がピアノを奏ではじめた。
ファーストラヴだった。
そして弾き語りだった。
宇多田ヒカルの歌を歌ってる人を
初めて見た。初めて聴いた。
ワンコーラス弾き終えると
「この曲なんだ。」と言った。
下手くそでごめんね。と彼女は付け足した。
失礼かもしれないが、CDの比にならないくらい心を打たれた。
「ありがとう、弾いてくれて。」
僕がそう言うと
「いえいえ、こちらこそ聴いてくれてありがとう。」
僕らは音楽観がよく似ていた。
音楽に対する思いや向き合い方
僕はギターで彼女はピアノを主として
弾いてきたが、感性というかそういった
見えないものがよく似ていた。

そして僕はどんどん彼女に
惹かれていくのがわかった。
この人の心が僕だけの為にあってくれたら。
好意を伝えることは難しかった。
伝えることでこの関係性が崩れてしまうんじゃないか、ぎこちなくなったら嫌だ、彼女が僕を恋愛対象として見ているわけがない。
そういったマイナスな感情が
土曜の帰りの電車のなかでよく渦巻いた。
次の日曜日。
僕は寿命を失った。
といっても今すぐ死ぬわけではない。
余命四年。
大学生活を終えて間もなく、
僕の人生は終わりを告げる。
残りをどう生きよう。
彼女とどう過ごそう。
彼女の心が僕だけをみている。
僕の嫌いな紫陽花があちこちに
咲いていた。それを見るのも
あと三回。
僕の人生がやっと歩き出した気がした。
泥濘みを歩きながらそんなことを
考えていた。

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