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いっぱい、ただあるだけ。

毎日世界は違った見え方をする。もしかすると変化したのは私ではなくて周囲の在り方なのかもしれない。

どちらでもある。

沖縄で育った人と会えば、その空間が美しい海の上を通る澄んだ鶯色の汐風が窓の向こう側から流れ、私達のいる場所の安全を信条に掲げて働いてきた人と会えば、

その真っ直ぐで何一つ偽りの無い態度と、受け得る重力の全てをそこに費やしたと思えるほどに垂直に起立する不可視な揺るぎない軸に、

自分のしている事と、自分の取り囲み見える人がしている価値創造と自由な行動は、平和を作り出している人ありきのものなんだと思えて頭から離れない。

そうやって時空間を超えて今の自分に作用する感覚的な全てが世界の感じ方を変え、逆に自分にはわからないが自分から発する何らかの情報を似たような形で与えているのかもしれない。

その影響は刹那的なものであったり長引くものでもある。

人の欲の狭間に存在し自分の意思が何一つ介入しなかった時期、川の流れに逆らい進む船の様に後退しているのにあたかも前進している錯覚を起こしそんな自分に陶酔していた時期、

集団に順応しようとして本質らしき物を見つけたけど、その纏まりを近くで見たら複数の点の集まりで、結局は順応しないことが順応する為のプロセスだと気付いて、

自然体な自分を俯瞰する事でのみ順応している様な感覚を味わえるんだと気付く手前にいた時期。

そんな風にいつの頃も様々に流れ込んでくる一切が自分の中心的な価値基準に一対一の関係を無言で築き上げる。

それでも好きなものは依然として変わらなくて、それが行方のわからなくなった時の微かな道標。

なぜかと言うと熱中できるもの中心に自分は生きているから。

何らかの動力に突き動かされて、或る部分に盲目的になり感情的になっている時は苦しいけど愉しい。

そんな時でもなるべく真に近い周囲のあり方と自分の関係性を整理しないと保てない自我が存在している。

でも今はほんの一部を除いて、知覚される限りのものの価値の凹凸が少ししかないように思えるフェーズの中にいて、感覚的な情報の渦もそんなフェーズにある。

いつも通りのことの中に、ちょっとした感情の起伏を作れればいいかなくらいで思ってる。


2021 5/18に書き留めていたスケッチ的な文章に後から手を加えたものです。

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