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自分がとりあえず「一周回った」のかもしれない話

こんにちは、リョウです。
今回の記事は、自己分析として書いてみたつもりですが、結果としては「自己紹介」の一種になったかもしれません。

最近、「読むこと」と「書くこと」が大好きだ。

「読むこと」はとても良い。例えば本を読むと、笑えたり泣けたりするのはもちろんのこと、普段は考えないようなテーマを考えさせてくれる(感覚としては、一緒に考えてくれる)し、自分が一生かけても辿り着けない概念や知識を、早ければ5分くらいで教えてくれる(理解できるかどうかは別)。

また「書くこと」もとても良い。書いた文章には時間的制約がない。会話と違って、伝えたい相手と時間を共にする必要がない。2時間かけて書いたものを5分で読んでもらうことも出来るし、5分かけて書いたものを2時間で読んでもらうことも出来る。また、1年後でも2年後でも、1000年後でも、文章が残ってさえいれば、自らの考えを他の誰か(未来の自分も含む)に伝えることができる。
動画や音声データとして記録が残せるようになった現代でも、文章構成や語彙の僅かな違いによる細やかな表現は、「書くこと」によって初めて実現するだろう。

さて、こういう訳で「読み書き」が大好きになっている僕だが、これがもしかしたら「一周回った」状態なのかもしれない、と考えているのだ。

まず、幼少期-児童期(中学入学以前)のことを考えると、僕はその時も、「読むこと」と「書くこと」のどちらも大好きだった。

「読むこと」に関しては、配られた国語の教科書を1人で先に読み進めてしまったり、ゲームの取説を隅々まで読まないと気が済まなかったり、とにかく字があれば読みたいと思う性格だった。

「書くこと」に関しては、(宿題として強要されない限り)作文全般が好きだったし、学校の取り組みで時々俳句を書いていたのだが、それも割と好きだった。また、厳密には「描く」ものかもしれないが、漫画を作るのも好きだった。どちらかといえば伝達手段というより、一種の創作活動としての「書くこと」が好きだったのかもしれない。

「読むこと」は当時の自分にとっては興味関心の追及だったし、「書くこと」は自己を表現したいという欲求(自己顕示欲?)の表れだったのだろう。そのどちらも、自らとの「対話」のような意味を持っていた。

しかしそのあと、中学に入り、思春期を過ごすにつれ、「読むこと」からも「書くこと」からも、いつの間にか離れてしまった。これは、他者との「対話」(例えば、恋愛とか仲違いとか)が忙しくなって、手が付かなくなったことが原因だろうと考えている。

それが「一周回った」というのは、『他者との「対話」をひとしきりやった末にそれに飽きて、自らとの「対話」の愉しさを思い出した』とも言えるし、『未だ他者との「対話」に躍起になっているが、そのなかで自らとの「対話」の必要性に気づいて、仕方なく戻ってきた』とも言えるような感覚だ。

いずれにせよ、何らかの形で「一周回った」感覚があるのだが、それは「円形の廊下を一周した」というより、「螺旋階段を登った(もしかしたら降りたのかも)」と表現できそうだと考えている。

つまり、「以前と完全に同じ感覚には戻っていない」ということだ。今のように、「読み書きすること」への欲求を再燃させながらも、その意味を考えている点で、以前の感覚を俯瞰している(もしくは見上げている)ような状態でありながら、似たような感覚に戻ってきていると言える。

そして今は、「なるほど、もしかしたらこれが「成熟」の一つの過程なのかもしれない」とか思いながら、それならもう一周回るのはいつなのか、回ったらどうなるのか、あと何周できるのか、なんて気の早いことを考えている。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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