あの病院を真似て。

 流れ作業の受付を済ませた男は、早速適当な入院室に入り込み、そこでベッドの上で療養生活を送っている患者に話しかける。「なあ、いずれはみんなで円を創ろうな?」まるで友人のような態度で接すれば、向こうもそういう雰囲気の中で言葉を返してくれる。
「ああ、そういうのもアリかもしれないな。美味しそうだ」とろけた頭を持っている人型実態が男に答えを出した。すると男はすぐさま賛同して、「いい兄弟を持った」と言い、口角を吊り上げて白い歯列を見せる。鏡のような輝かしさを存分に見せつけると、売店を出ていくような足取りで入院室を退室した。

 この病院に居る患者は、奇跡的にも、しわくちゃで乾燥しているような老人がほとんどだ。また彼ら彼女らは時間を持て余していて、さらに暇というものを愛していない。
 男の中で、その言葉が反復する。まるでテニスやバドミントンなどの壁打ちのようで、頭蓋骨という壁に叩きつけられた言葉は、勢いよく跳ね返って男の脳内を暴れまわっている。
「まるで体育館じゃないか……」男は着ている黒いコートを脱ぎ、通りかかった看護婦に押し付けると、そのまま二つ目の入院室の戸を開いた。

「とにかく私は、全員が自分と同じ病人に見えるのさ……」
「へえ、それはすごい。まるで健康体だな」
 二つ目の入院室訪問で出会った寝たきりの患者を、男はとても気に入っていた。まだ二言ほどしか言葉を交わしていないが、男は食べ物の美味しさを評価する時、その食べ物を綺麗に完食してから評価を下す人間ではなかった。
「そして今は……あの、あのあの」患者は、緩くなったスボンのゴムのような口をごわごわと動かす。「そうだ。アンタの服のボタンが、米粒と健康的な歯にしか見えない」患者は萎れた指先で天井の蛍光灯の隅をつつくフリをしながら、ゆったりと声を出していた。
 男には祖父はすでに居ないが、もしも祖父が現在も正常に人間をやっていたら、こんなふうに萎れた老人になっていたのだろうかと思いながらその指先を眺めていた。
「おかしいな。テントウムシはどこにもとまっていないぜ? あと、お前にとっての女神とやらもな」男はそっと耳打ちをすると、そのまま患者の上に伸びた腕を掴み、ゆっくりとベッドの上に戻した。長い腕がヨーグルトの表面のようなシーツに触れると、患者は途端に「朝から昼までは違法建築で酒を呑み、夜になればアパートの一角で麻雀を打つ生活さ」と紙幣のような匂いのする過去を思い出す。まるで旅人のような風貌に感激をしたのは男で、すぐさま立ち上がると同時にお辞儀を繰り出した。
「そんなに直角じゃなくていいんだ……」患者は男のつむじを見ていた。
「いいや。アンタは敬意を払うべき人間だ。ついでにつむじも見せるべき」
 男はそのまま入院室の扉をくぐった。

「ああ、みんなが私を殺そうとしているんだ……」
 廊下ですれ違ったよろめき患者の、悲痛を含んだ枯れている声が男の耳を不快にくすぐるが、それも二、三歩ほど歩くとすっかり不快感を忘れ、水分と洗剤を含んだスポンジのような心持ちで三つ目の入院室の扉を開いていた。
「うおっ、なんだこれ」今までの患者たちとは違い三人目の患者は日光を愛しているらしく、桃色の分厚いカーテンを完全に開け切っていた。そのため男が開けた出入り口から見て正面の位置にある大きな窓からは、輝かしい太陽の白い光が注がれていた。
 もっとも、そんな光も男にとっては室内を乱暴に突き刺す凶器のようなものにしか思えず、不意打ちの閃光に眼球を犯された男はすぐに室内にあるチェス盤を目の前に持っていき、光を断ち切る壁として使用した。
「なあ、アンタにはあの光が凄まじくないのかい?」室内に居るであろうまだ見ぬ患者に男は問う。しかし帰って来るのはゾンビ映画でも聞かないような極めて下手くそな喘ぎ声だけで、その中途半端な低音に男は思わずチェス盤を投げ捨てた。チェス盤は壁の適当な位置にガシャンと音を立てながらぶつかり、その大半が砕け落ちたが、一部の勇猛果敢なチェス盤の破片は、そのまま壁の白色に突き刺さった。
 それに目ざとく反応したのはベッドで寝たきりになっている患者の眼光だった。それまではガラス玉のような生命の無い目をしていたのも関わらず、チェス盤の音を聞いた途端に眼球には急速に生命の潤いが戻っていき、明らかに水分のある球へと進化した。そんな変わりようを光に苦しみながらもなんとか目の当たりにしている男は、まるで植物の成長を早送りにした映像を眺めているような気分だったが、しかし患者はやはり、何かしらの中毒者である老人のようだった。
 男は目を凝らしながら、「どうしてそんな異常なままで、この正常を生きられるんだっ……」と苦悩した。
「ああ。私には、全員が薬物か角砂糖の常用者に見える……」患者は口角から取りこぼすようにつぶやいた。その声を皮切りとして、室内を埋め尽くす光はその激しさに収束を見せていたが、患者の汚い声はどうやったとしても、どんな最新の科学技術を使ったとしても、一切の変わりようがなさそうだった。
 男は深いため息を一瞬のうちに吐ききった。「フォークリフトが必要だな」数学教師のような口ぶり。男は激しく腰を折り、患者の和紙のような顔面の真上に自身の顔面を浮かばせると、口から唾液でてかてかと輝いている赤い舌をチロリと垂らし、そのまま患者の干し柿のような上唇に乗せた。釣り上げたばかりの魚のようなぬめりを持った男の舌は干し柿をただの柿へと変換し、患者の体に潤いをもたらした。さらに男は舌を這わせ、梅干しの見た目にそっくりな下唇にもぬめりを塗りたくった。同じように潤いを得た唇は輝かしく、しかしほのかな光と共に患者の身体を受け入れていた。
「私は今までたくさんの不思議な文字列を思いついているけれど、その二割ほどは、メモをする前に忘れてしまっているんだ。ああ……それがとても悲しくてね。思いついた文字列が、まるて流れる水のようにどこかへと行ってしまう。それを脳内で経験する度に、大事なものを取りこぼしているような気がしてならないんだ」シリアスな患者が、頭の中では炭酸水を思い出しながら語る。
 患者の真面目声に男はあえて舌打ちをした。「だったらいつもみたいに、あのチェス盤を使えばよかった」労働という真っ赤な林檎を無視したとしても、マネージャー用の干した魚やグリスを塗りたくった鉛筆には届かないし、そもそも今の男の手の中には、哺乳瓶の温かさと母親らしさがある。
「ぼくの母親は確かにこれ一本だったさ」何も残らない。なにも語らない。掃除ですら淡々と勤め、霧雨のような人工的を好んだ。それは排他的でもあったが、灰色の唇から香るのは常に疑う文言だった。錠剤を親指で取り出す瞬間が最も生を感じ、廃棄物を目にした瞬間にだけ上位の存在になれる。しかし一つ言えるのは、正しいことこそが道しるべではないということ。例えば港が近くにある町ではいつものように魚が猛威を振るっているが、それも山岳部にまでくれば飴に変わる。天候を読んだとしても神話には勝てるわけがない。「あるいは都市か? ええ、それでもいいだろうけど、でも確定事項をどうやって覆すの?」男はすでに部屋の出入り口の白い取っ手に手をかけていた。
「じゃあ……いい夢見ろよ」
「現実が夢さ」
「……ひどい悪夢じゃないか」
 男はすぐに入院室から立ち去った。

「まあ、僕はどこかの王子様でもあるんだけどね!」
 売店に侵入した男は目の前の短い金髪の美少年、アリスの正体が怪盗であることを理解していた。黒い蝶ネクタイやら白シャツにサスペンダーなどというお坊ちゃま風の衣服が大の苦手で、本当は怪盗らしいスーツやマントを気に入っていることも理解していた。
 しかしそれはアリスも同じで、男の監察医という職務を誰よりも理解していた。
「僕はみんなで楽しく生活をしていきたいだけなんだ」
「それには燃料が足りないな。それと友情が多すぎる……」
 七番目の選択肢を進む二人にとって、自身の素顔についての詳細な語り口や、それを始めた後の話し合いなどは一切不要で、いても立っても居られない男は、ただアリスの白米のように美しい肌に手を触れたかった。とにかく、田舎にある巨大な畑のような心構えをしているアリスに対して、一刻も早く気に入られる必要があった。
 アリスは男の電信柱を連想させるとても高い身長を確認すると、必死に両手を使うフリをした。しかしその、あまりにも不自然な挙動はむしろ男に対して、「自分はここの自動販売機でションベンを垂らすのが趣味な、変態野郎です」と主張しているようなものであり、男はすぐさま理解した。
「僕たちは正常さ。おかしいのはこの病院と、病院で入院している患者と、そして世界そのもの」
 男はアリスの鼠径部を見ていた。宝石のように美しい青色の眼球でもなく、小さくぷるんとした唇でもなく、茶色い短パンと下着に守られている鼠径部をしっかりと自身の脳裏に焼き付けていた。
「なあ、それ上手いよな」男はアリスの両肩に触れ、半円形の笑みを浮かべて言葉を繰り出した。まるで幼稚園の保育士のような態度だったが、その眼の奥に浮かんでいる、愛おしい標的を狙う薄汚れた狩人の眼光隠すことはできていなかった。
「ああ、ああ、ああっ。おいしい……とってもおいしくて、おいしっ」アリスはすっかり恐怖という物質の中毒者だった。完全に染まりきっている胃から発せられる電撃によって、目を見開き、男のように半円状になった口からは唾液を垂らしながら、体の全てをカタカタと震わせる。
「『それ』ってどっちのこと言ってると思う?」男が無表情をむき出しにすると、アリスはびくびくとさせた肩で、「知らないです」とささやいた。
「お前の頬の肉を食ってやろうか」男はアリスの右耳に顔を近づけて、吐息と共に囁く。
「い、いやです。……コーラの瓶がこの世から消えるくらいには!」
「そうかい。それは確かに、重症だな……」男は自身に傷口を思い出していた。「ああ、ちなみにおれは今、いつもお菓子をねだりにくる子供のことを待っているんだ」
 男はアリスから肩を離すと、そのままニタニタ笑いを止めずに売店の奥に進んでいった。
 後ろから聞こえるアリスの泣き声が、どうしようもなく心地よかった。

「それは大層な夢だな」売店の奥、ほぼバックヤードと言っていい区画に足を運んだ男は、右方向から聞こえてきた女のしわくちゃな声で足を止めた。そのまま右を向くと、そこで佇んでいたのは老婆のローデンで、男の輪郭の定まっていないあくびを聞いた途端に、腰を下ろしていたビール入りの段ボールから立ち上がった。それから患者同様にシワで満たされている顔を男の長身の一番上に付いている頭に必死に向けると、まるで小鳥を潰すかのような笑みを浮き上がらせ、「でも考えろ? 欲情した虎に人間が勝てると思うのかい?」と、男に疑問を投げかける。そはカウボーイのような様相にも見えたが、男にとっては結局老婆でしかなかったので、男そのまま、は呆れた態度を貫いた。頭の中では騒音が響いていたが、自慢の長い黒髪をセレブのようにサラリと靡かせていた。
 ローデンは心の奥底で、粉末状のコンクリートで覆われている感情と共に存在している、紅色のあばら骨のことを思っていた。あばら骨はとても脆く、その一本一本を止めているボトルのような血液の塊が現在は怯えているようにきしきしと緩んでいた。ローデンはそれを小刻みで煩わしい振動として感じ、棘のような危機感によく似た栄光を眼窩の奥で夢に見ていた。すかさず二つの眼光が白から赤色に変わったが、それは目の前の男にすら認知されていた。しかし男はちょうどこの売店で何を購入するべきかを頭の中で議論していたので、大した注目を文言として吐き出すことはしなかった。
 男の無視の行為は、ローデンの中の蛇のような感情を巨大化させてしまう。それは勝利の余韻に浸る大人の鴨のようだった。ローデンの脆く弱い老婆の体の全体を這う蛇は強烈で、すでに抑えきれないほどになっていた。蛇の熱い表面がローデンに触れると、それだけで視界が揺らぐほどの動揺と刺激を感じる。まるで自分が激しい戦争に参加し、糞以下の敵兵を拳一つで次々と圧倒撃滅し、最後には仲間の残した煙草のカスの上で野垂れ死ぬまでの壮大な戦慄か、あるいは格闘技の大きな赤い舞台の上で全裸で直立し、現れるであろう挑戦者か、自身のことを強力な戦車であると思い込んでいる老いぼれ患者を待っている時のような神経質さだった。
「心臓が震えている気がするのよ」
「あたりまえじゃないか。アンタは生命体だ」
 ローデンの中に巣食う何重にも湾曲した感情は、額にある六本のシワが表していた。無いはずの気概で立っているローデンだったが、実際は長い長い、本当に長すぎる蟻の巣の中間地点に投げ出されていることを知らなかった。デリバリーでも頼もうかと勘づいたが、それでも周りの土は掃けていかなかった。
「聖なる人参を略して、セイジンか……」
 赤い皮膚を着用している、カップ焼きそばを手に持った年配患者はそんなことを言いつつ歩いて行った。

 病院の西側の長い廊下を歩いて行くと、必要な人間にはドラッグストアが見えてくる。目印である茸の看板が視界に入った人間は、たちまち歩く速度を上げて向かっていく。
 二階への階段を無視して木材で出来た戸をくぐると、その先は白い壁の室内。コンビニエンスストアやスーパーマーケットのような陳列棚は全て黒色で、そこには色とりどりのパッケージが置いてある。
 店内の様子を気に入った人間は笑顔を浮かべ、自分に合う薬を探しだす。人間たちは、自分にぴったりな薬を理解していた。明確な名前などは一文字たりとも知らないが、自分の体に難なく染みる相性の良い薬がどういうものなのかを、誰よりも知っている。「自分のことを一番理解しているのは、いつだって自分なのよ」主治医は口をそろえて言っている。
「しわくちゃな患者でも、自然と笑顔になれる場所なんだ」ドラッグストアにたどり着いた男にも笑みがあった。ドラッグストアとは本来はただの病棟だったが、必要な人間にとってはドラッグストア。しっかりとした清潔施設の中で、合法的な薬に触れることができる。
「おれは今でも、有名な政治家の下で働く夢を見るんだ……」小腸のような桃色のカウンターの中で立っている、店員を務めている男は口から便利な常套句を垂れ流す。「それで、そんな夢から起き上がると、今度は現実の中で、自律神経が二つある異常者になりきって行動を開始するんだ」
 店員は一度も薬を使ったことのない初心者だったが、心構えや生い立ちだけは違法な薬に手を染めた乱用者のそれだった。しかし薬を使わないことが良い事だと信じている店員は、今日まで一度も、自身の肌に注射針を刺したことがない。店員の古ぼけた大木の幹のような肌は全身からにじみ出る悲壮感を際立たせ、黒ゴマのような双眼は宇宙人を彷彿とさせる。「良い仕事に就けたよ。幸福だ」常に口走っている。
「全く愉快な話なんだな。お前の頭のようだ」男は二つのオレンジ色のパッケージをカウンターに置いた。それは自身の中にある興奮を吹き消す作用のある薬。
「君も常用者なんだね?」
「ああ、それがないといけないんだ。服も着れないくらいだ」
「それはそれは……まるで尊厳が破壊されますな」
「ああ、だからはやく、ふさわしい病室に籠らないと」男はすぐに財布を取り出し、札束を適当にカウンターに置いた。モノの値段を正当に理解することができない男は常に一般よりも大きな額の札束を財布に収納していて、それによって安心感を得ている。まるで赤子のような姑息さだったが、男にとってはそれが正解であり、それにしか頼ることができなかった。
「ああ、ここはまるで良い場所だ」全ての会計を済ませた男はその場で、鼻をスンスンとさせる。陳列されている薬のパッケージから漏れ出す香りを嗅いでいる。しかし男が感じ取っているのはそれだけではなかった。
「同胞よ……」
 空気と共に男の体の中に入ってきたのは、薬を使うことで正常を保っている人間たちの体臭だった。男は目を瞑り、その臭いに身を任せる。合法なモノだけで中毒者になってしまった哀れな人間……、ついに違法なモノにまで手を出してしまった犯罪者……、他人に薬を勧めることを生きがいにしている変人……。臭いだけに集中し、存在を頭の中に呼び起こすと、それらと一体化したような気持ちになっていく。不安定と安定のちょうど中間あたりで立ち往生している人間たちが愛おしく、浮遊をしているかのような心地良さに満たされる。
「見よう見まねさ……」ゆっくりと目を開いた男の母親は、バレエ教室だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?