ミミズ式除染。

「透明感のある方向性でお願いします」女の主治医は夢中で忠告をしている。
「火炎ですか」手術用の衣服を着ているルートは言った。彼は過去にひどい膿を体中で経験しているので、医療には従順な態度を示している。「だって、もう体が赤くなるのは嫌なので」
 緑色の手術衣装が似合うルートは、手術室の隅にある金属製の台からナイフを一本持ち上げると、不器用な手つきで白いタイルの壁に向けて投げた。しかし天然記念物的不器用ゆえにナイフは壁には到達せず、ケリー鉗子の先端のような冷たく緩やかなカーブを描いて、手術室の出入り口である大きな灰色の扉に、タンッ、という短い音と共に刺さってしまった。ルートは、丸くした目でナイフを眺めながら、衣装と同色の手術帽子の下にある額が、焦りの感情によってじんわりと熱くなっていくのを感じ、自身のどうしようもないナイフ扱いの下手さに嫌悪を通り越した呆れを感じていた。
「おい! どうしてお前はそうなるんだ!」それは主治医の怒号だった。「お前はなんでナイフすら、まともに刺せないんだ? そんなことでは現実の患者を前にした時、ただ気まぐれな麻酔のマトになるだけだぞ?」無表情ではあったが、怒りの感情が脳に溜まったいるのは一目瞭然だった。
「だ、だって、投げなんですもの。どうして投げなんですか」
 ルートは主治医の爆弾のような怒鳴り声に委縮をしつつも、出入り口にあるナイフを引き抜く。小心者のルートには先ほどから、扉から幼児のような空を切り裂く悲鳴が聞こえていたので、はっきりいって上司である主治医のお説教を聞き、それに対してまともな返答をしている余裕などなかった。
 ルートが刃の全てが扉に刺さっているナイフを取り出すのには、一般的なテレビで流れるCMと同等の時間と、缶コーヒーのプルタブを開ける時の親指に込めるほどの力を絶対に必要としたが、なんとか無事に、ナイフはルートのゴム手袋が装着された白い手の元へと帰ってきた。
「よし……もういいから。とりあえず。さっさと除染機をつかいなさい」ルートがナイフを握ったのを確認した主治医は、それからなまめかしい動きで腕を動かし、心の中ではルートの醜態を嘲笑っている。顔には一切出さない嘲笑が手術室内全体に響く頃には、主治医の指は扉からは正反対の方向にある白い箱を指さしていた。「ささ、いつものようにね」
 ルートを含め、この手術室を使用する医者は皆、その白い長方形が除染機だとは思っていないが、我が儘な性格である主治医の絶対権力によって、それは確かに除染機である、除染をするための有能な箱であると言わされていた。そんな除染機に今日で一番近づいたルートは、すぐに上部の蓋を開ける。林檎をひねり潰すほどの筋力を必要とするロックを解除し、蓋をヒンジに沿って上げる。洗濯機と大差のない内部構造の中にぎっしりと入っているのは、大量のミミズだった。
 意思を持った茶色い管たちが、そのブヨブヨさをいち早く自慢すべく身勝手に這いずり回り、太い焼きそばのような全体はグネグネとうごめいている。蓋を開けたことで光が入り、それに反応しているのかミミズたちの動きは活発だったが、それでもミミズたちは行儀だけは良いのか、一匹たりとも除染機から溢れ出ることはなかった。
 ルートはミミズたちの自信たっぷりな踊りに素直な吐き気を催しながらも、ナイフの刃の部分を中に入れていった。
「ううわっ……もう、どうしてここはこんなのしかないんだ!」
 スポンジに刃物を刺し込む時と同じような感覚が、ルートの清潔な手に伝わる。時折、明らかにミミズの体を切ったような、風船が静かに弾けるような感触が上がってくる。それを全身で感じるルートには多大なる不快感が波となって押し寄せ、背筋が凍り付き、しかし熱湯のような熱い汗は止まらず、鳥肌が全身を覆った。ルートは目を硬く閉じ、一文字の口をきゅっと締め、ナイフを力強く握って、とにかく最後まで押し込んだ。
「おい、刃はすでに、全てが入っているぞ」主治医の声と同時に、ルートは肩をぽんと叩かれた。その瞬間に一気に目を開き、勢い良く手元を見た。確かにナイフの刃は全てがミミズたちの中に入っていて、ミミズたちの激しいうごめきも止まっていた。それは除染が完了したという合図だった。
 後ろから主治医の「早く出せよ」という声が聞こえると、ルートはナイフを引き抜いた。刺す時よりも圧倒的に楽な力でミミズたちからナイフを取り出すと、出てきた刃はすっかり輝きを取り戻していた。
 鏡と大差が無いほどの輝きを目の当たりにしていると、それに反射して後ろにいる主治医の険しい目が見える。冷徹ではあるが、どこか熱意も感じられる主治医の目。身の上話を聞いたことはないが、その眼光からは薬物をやっていないことだけは確信できる。そんな目が、ルートは好きだった。
 鏡越しに目と目が合うと主治医は軽く頷いた後に、体を後ろにくるりと回転させて去っていった。
 ナイフによって亀裂ができた出入り口を押し開けて退室する主治医を、ルートはナイフの鏡で、見えなくなるまで見つめていた。

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