ジャンキーのプール。

「まだこの時間帯だと、空は明るく青色だな」男は晴天という現在の天気に、雨粒のような憂いを感じている。冷水を頭から被ったような感情を蓄えている男の心臓は、すでにマッチポンプが行われた後の縮小を始めている。
 男は咥え煙草を右の親指と人差し指でつまみ上げ、歩道を歩いているウエイトレスの受け皿に投げ入れた。そして一度だけ鼻から空気を吐き出すと、隣町の工場で受け取った黒コートに付いている茶色いシミを見つめてから空を見る。外の冷たい空気を喉の遠し、炭酸での潤いが簡単に乾燥していくのを感じていた。
「ああ、空に浮かんでいるあの雲の形……まるでうんこみたいだな。便器に勢いよく噴射した粘着性の高いうんこみたいだ」
 そこで、手にあるブラックコーヒーを一口だけ吸い込む。無駄の無い純粋な苦味が口に広がり、飲み込むと程の好い冷たさと共に、苦味が胃にまで到達して一気に全身が心地よくなる。
 まるで夢を見ている気分……。
「と、すると……この青空ってのは便器なのか? つまり地球っていう星は、便器に包まれていることになるな」
 ブラックコーヒーはすでに男の手元を離れていた。
「あれ? ならこの地球の地上はどういうものになるんだ? 便器のすぐ近くってことは下水道か何かなのか? じゃあそこに住んでいるおれらは、下水を流れる汚い水ってことか」
「ちょうどいいじゃねえか」通り過ぎの老人が、しわくちゃの低音で吐き捨てた。
 老人の瞳は灰色の光があった。

 男はどうしても、あの太陽を食べてみたかった。林檎や梨をそうするように、温かい心臓をそうするように。片手でつかみ、そのまま大きな口で食らいつきたい。そして強い味付けに悶えながらも咀嚼をし、しっかりと飲み込んで胃での消化すらも感じ取りたい。取り入れた食物が自身の体の中で栄養となる過程は、火達磨になった人間が息絶えるのと同等に美しく、男はいつまでも感じていたいと思っている。給食のような規則性のある食事と、それに同行している白髭の外交官や着物を着ない演歌歌手こそが植物の中での至高であり、泥水用のダム建設を超えた全世界に焦げ臭さを言及すべきだと強く思っている。
「今日は曇り空で、空一面に雲があった。空を便器とし、雲をうんことすると、便秘ってことだ」男は今、自宅の便器に腰を下ろしている。「今日の空は便秘だったさ……」
 男は自宅の玄関で、靴を脱いだり履いたりしながら口ずさむ。男は会社の重役になったフリをしている。ダイニングテーブルに置かれた煮込みハンバーグからは、焼き過ぎた大根の焦げ臭い香りが漂っていた。

 快感だけを求めているDJや、儲かればそれで良いという考えしかない全身白タイツのスタッフ、またはそれすらも目下には無いただの肌が青い薬物常用者などが入り混じる暗く卑しい町の中に、唯一安全な酒が呑める場所がある。数年前に発生した二回目の精密調査や月一の一斉ミミズ除去などにも耐えてきた老舗であり、筋金入りの酒飲みだけが集まるバー。議論を交わし、意気投合をし、酒を必要以上に飲んでしまうことに楽しみを見出している人間たちは、こぞってそこに集まる……。
「小汚い店主がやってるっていう、アレか」
「でもあそこって、だいたいハズレだろう? ……ならトべない」
「ああ……そんなことより、アンタもヤクがほしいんだろう?」透明なパケに入った白い粉を差し出している。バナナのような湾曲した笑みを浮かべる売人の眼球には、たくさんのミミズが這いずり回っているように見える……。
 町の人間はたいてい、合法な事柄を信用していない。
 バーの木製扉にたどり着くには、いくつかの迷惑な石垣や、歯列が全て真っ黒なフードを深く被った人間の勧誘を無視して歩く必要があった。そうでもしないとあそこにはたどり着けない。誘惑に負けてしまえば、その瞬間に常用者の一員になってしまうから……。

 赤色の看板が目印になっているバーには、いつものメンバーが客としてそろっていた。皆お気に入りのコートを着込んだり、護衛を付けたりと豪華に自身を飾っていたが、しかしそこの店主は気まぐれで盲目になるので、そのメンバーの誰一人とも正確な面識がなかった。
「今日はどうしても赤いカクテルが飲みたいなあ」警部がまるで独り言のように常套句をこぼすと、瞬間移動よりも素早い速度でカクテルがやってくる。素早すぎたので、警部はそのカクテルが最初からそこにあったものだと勘違いを起こす。「おい! これは入店時からここにあるんだろう? もうとっくに腐っているよ!」
「じゃあアンタは何が飲みたいんだ?」店主は目元に付けているサングラスのダイヤルを回転させる。アンティーク的な子気味の良い音とともに、サングラスはその色を黒から青に変化させた。
「ああそうだな……」警部は自慢の顎髭に右の親指を当てる。「おい、お前はどうだ? 何が飲みたい?」
 警部が声をかけたのは、黒コートをいまだに最高のお気に入りとして着用している男だった。
「ええと、私がこの席に座るのは、今回で五度目になるんだけど……過去のどれもが刺激的で、まるで食事会の欠席を会場でキャンセルする女性演歌歌手のような生きざまだった……ところで注文良いかな?」
「何にしますか?」店主は青いサングラスを片手でグイッと引き上げた。警部が声を抑えて笑っている。
「じゃあ……胎芽期女性のミックスジュース、シナプス結合味」
「お前ってどうして、いつもそんなふうに気持ち悪いの」
 しかし店主は平然とした顔だった。一切の動きが無い表情筋のままで、グラスを取り出し、注文通りの酒を作る。
 氷の音が響いたが、実際に氷は一つもグラスに入れられていない。そもそも店主には透明の氷が、透明感のある桃色をしたヒトデに見えていた。
 いくつかの赤系統の色の酒を混ざ合わせ、最終工程として店主独自の眼力を酒の表面に飛ばす。すると酒から焦げ臭い臭いと共に黒い煙が何本も立ち上がり、酒の水面がじっくりと下がっていく。
 店主の重い眼力を受け止めることができた残りの酒は、いつの間にか子宮のような桃色を生み出していた。
「自分にはこれしか、無いもんで……」
 店主はいつでもサングラスに自身の職の誇りを語る。それは貧困に苦しむ家族の母親が、すっかり細くなった子供に架空の希望を語る口調によく似ていた。そして警部は店主が仕上げのかき混ぜ作業を行っている酒を見た。真っ赤な液体はどう見ても血液にしか見えず、警部は黄色くなっている歯列をむき出しにした笑みを浮かべながら、手元のカクテルを勢いよく飲み干す。(警部の黄色い歯列が見える笑みは警察界隈でも有名で、『本物のバナナスマイル』と呼ばれている。)
「注文のものです」店主は何気なく男の前に酒を置いた。硝子と木目調のテーブルがぶつかる小さな音とともに男の視界に現れた酒には、透明で小指ほどの大きさのオタマジャクシのような物体が無数に浮かんでいる赤い酒だった。「作るのに苦労しましたが、だからこそ一気に飲み干してくれるとありがたいです」
 店主は男に期待の眼差しを向けている。まるでヒーローショーでヒーローをじっと見つめる子供のようだった。
「おいおい。実験台にされちまったよ!」男は片手の中にすっぽりと納まるグラスを持ち上げて、そのまま小さなオタマジャクシごと酒を一気に口に流し込み、それからはテーブルの木目調をにらみながら酒を味わい始めた。強烈な炭酸はたくさんの棘が口内をちくちくと痛めつけているようで、醤油を薄めたような味は微小の辛味があった。オタマジャクシは見た目通りにぷるんとした舌ざわりで、舐めていると背筋に冷たい線が走る。男はそんな酒を口全体に行き渡らせると、ゴクンと音を立てて唾液と共に飲み込んだ。炭酸の棘のような刺激は胃に到達するまで続き、食道が傷つけられていく感覚は男に吐き気をもたらした。
「おいおい、これはまさに傑作じゃないか」男は熱心な宗教研究家のような華麗な顔つきで腰を浮かせ、店主にキスをせがむ。店主はすでに次の酒の準備に取り掛かっていたので、男の乾いた唇が唾液によって、てかてかと潤うことはなかった。
「わかってる。企業努力の味だろう?」男は勢いよく椅子に尻を落とした。「アンタも飲めば? 金はそこの警官が持つでしょう?」
 男が女教師のような口ぶりと指使いで警部を睨むと、警部は自慢のダジャレが滑ったようなばつの悪さを全身で感じ、ため息交じりに「二杯までなら」と店主に促す。店主は静かにうなずくと、そのまま警部や男に背を向けて酒を作り始めた。
 男は便器の中で生活していた日々を思い出す……。まるで酔いのような心地よさと新設のコンビニエンスストア店内の臭いのような不快感が一緒に脳を巡っていき、皮膚をプラスチックに変身させていく。新幹線が通り過ぎた後のような空気の余韻が耳を擽り、やがて新しい不快感となって脳に残る。男はどうしようもない酒飲みだった……。
 断片的な飲酒が、男の体の動作を油が切れた歯車のように悪くしていく。男は観測者のフリをしていた。道化師の真似が得意な店主と出会ったのもその時で、ようやく立ち会えた記者会にすら酒を持ち込んだ。脱糞の臭いが気にならないほどに破壊されている鼻孔の不自然さ、そして焦げたり再生したりを繰り返す右ひじの皮膚の異常性をしっかりと指摘してきたのは警部だった。
「お前のここ、歪んでいるぞ……」
「まるでソーセージみたいだろう? ええ、とってもカッコいい」
 世界が歪んで見える……。世間の常識がとても硬く、偉そうにのしかかっている気がしてしまい、頭が熱で破裂してしまう……。男は自分の人生の中で、色を正しく認識できないことがこれほどまでに不安を発生させるとは思っていなかった。まるでがん細胞のようだと男は思った。「おれは医学雑誌で読んだ知識以上のがん細胞に関する知識を、見事なまでに持っていない」
「まるで味噌汁じゃないか。作りかた、わかるのか?」男はすでに、誰が何をしゃべっているのかが理解できていなかった。そしてついに、ここは天国なのかと錯覚しだす。
 男は常に、愛人が入院生活をしている妄想をしている。そうすることで安明を感じ、世界について思考をする必要がないと実感している。逮捕状を突きつける夢を見ていたいと思っていた過去もあった。
「落ち着けよ。今のおれは先端が尖りに尖った鉛筆で、この木目調に傷を付けたくてしょうがないんだ」
「何っ!? おい、やつは裂傷パワーに満ちている! 今すぐ捕まえろ!」警部の一声で、警部の後方に直立する制服警官は走り出す。しかしそんな勇猛果敢な直進を、男はすぐに右手で制した。
「おいまて、それだとまるで、おれが頭のおかしい異常者みたいになるじゃねえか。そんなの心外だっ! 噓っぱちじゃねえか!」
 バーのマスターは、やはり脳神経のどこかしらが故障をしているのか。副業として、他人の糞を両手に抱えてコンビニに入店するチャレンジを開始している。「まるで見間違えたように、常連に硝子コップを投げつけるんだ」
 確かに彼の叱咤には明確な色があったが、それを事実として留めておくには、最大限の敬意と資金が必要になるはずだ。また、博士が自分で床に置いたフランスパンで躓く瞬間を、助手はたまたま見てしまった。「あれは限りなく阿呆に近い」
「酒を呑むなとしわくちゃな友人から忠告されたが、それを守ることは私にはできないらしい……」
 男は薄い赤色の酒を一口で飲んだ。
「もう一杯だけ呑もう……断酒は明日から始めるものとするさ」
 耳鳴りが、脳の奥にまで聞こえてくる……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?