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天国ではトイレに行くの!?

こんにちは!
新米クリスチャンのリョウです。

このブログは、全くのノンクリスチャンだったボクが、
クリスチャンとして導かれ、その中で見たもの感じたことなどを
気ままに書き綴っていこうかと思っています。

不定期更新ですので、たまに覗いてみてください。

最近忙しくて更新できなくてすみません。
今回は、天国についてのボクのちょっとした妄想にお付き合いいただければと思います。

クリスチャンの趣味とは

その前に、ちょっとだけボクの話をしますが、
ボクはもともと漫画・ゲーム・映画・お笑い…など
インドアの趣味を多く持っていました。

それぞれの分野で、本が書けるくらいハマっていました笑。
しかしクリスチャンになって、次第に世俗のエンターテインメントから離れていきました。
(どうやって離れていったかは、また別の機会にお話ししますね)

しかし、そうなると趣味が全くないんです。
健康のための運動はしていますが、別に楽しくはないですし、
料理も得意なのですが(元料理人なので)
作る相手がいないと、手の込んだものは作る気にもなれず、
趣味とは言えないんです。

クリスチャンの趣味って、皆さんどうされているんでしょうか?

ボクは世俗のエンターテインメントに興味を失ってから、
仕事か聖書を読むか説教を聞くかだけの生活になりました。
ご飯作るときも食べるときもお風呂の時も猫と遊ぶ時も、
ずっと説教を聞いています。

もちろんそのこと自体は、かなり恵まれているのですが、やはりちょっと煮詰まってくるというか、頭がパンパンになってくるんです。
もともと遊びの多い適当人間なので、ストイックにやりすぎるとバランスを崩してしまうんですね。

それで、何か息抜きを探さないとなぁと思っていたのですが、
それがようやく見つかりました。

それは何かというと「歴史」と「物理(たまに生命科学なども)」を勉強することです。

「全然息抜きになってないじゃないか!」
と突っ込まれそうですが、
エンターテインメント好きのボク的には、歴史や物理はとっても刺激的なエンターテインメントなんです。
しかも、歴史や科学が、いかに聖書に沿っているかが良くわかるので、毎回感動します。

聖書は科学的じゃない!?

たまに「聖書は人間が作った空想物語だ」とか「聖書は科学的じゃない」とか言う人がいますが、
それは聖書を読んでないから、イメージでそう思うのでしょう。
実際にしっかり読んでみると、
聖書は歴史書であり、非常に科学的であることがわかります。

分かりやすい一例を挙げると、水の循環があります。
雨が降って、川が出来て、海に流れ込んで、蒸発して、雲になって、また雨になる。
これは、誰もが知っていることですが、
実はこのことが一般的に知れ渡ったのは18世紀初頭だったと言われています。(発見されたのはもう少し前ですが)

それまでは、
「海の水が地中を通って真水になって山の頂から川となって流れている」
ということが信じられていました。

しかし聖書の中で最も古い書物であるヨブ記にこう書かれています。

彼は水のしたたりを引きあげ、
その霧をしたたらせて雨とされる。
空はこれを降らせて、人の上に豊かに注ぐ。

ヨブ記 36:27,28

アモス書にもこんな記述があります。

プレアデスおよびオリオンを造り、
暗黒を朝に変じ、昼を暗くして夜となし、
海の水を呼んで、地のおもてに注がれる者、
その名は主という。

アモス書 5:8

今から約3500年前に書かれた聖書(ヨブ記)に、すでに水の循環が書かれているのです。

このように、聖書は科学的に矛盾しない書物です。
当然神様はこの宇宙の物理法則を作られた方なので、矛盾するはずもないのですが、聖書が科学的でないと信じている方は、
聖書をきちんと読んでいないと言わざるを得ません。

そんな風に、歴史や科学を勉強して、聖書に照らし合わせると、いかに聖書が真理を語っているかがわかるので、とても感動するのです。

天国ではトイレに行くのか?

さて、本題です。
散々聖書が科学的だという話をしておいて申し訳ないですが、この先は科学的に絶対証明できない話になります。
それは、天国の話だからです。
行ってみないとわからないので、証明のしようがありません。
なのでここから先は、ボクの妄想だと思ってください。

ボクの通っている教会で、ひとつ話題にあがった話がありました。
それは、「天国では、トイレに行くのか?」ということです。
別にどっちでもいいですし、聖書に記載はないので天国に行くまでわかりませんが、
物理を勉強していた時に、仮説として出てきたボクなりの理論があるので、説明してみたいと思います。

まず最初に物理の世界では、絶対とされている物理法則があります。
熱力学第二法則というもので、
エントロピー増大の法則と言われるやつです。

物理に興味がない方は、「は?」って感じですよね。
覆水盆に返らず
とか
「平家物語」の冒頭部分
“祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。”

とかが、エントロピー増大の法則といわれるものです。

まだ「は??」という方もいらっしゃると思うので、
もっとわかりやすく言うと、
「物はいずれ壊れる。壊れたら直らない」
という法則です。
ものすごいざっくりなので、正確ではないですが…。

卵を割ったら、もとの卵には戻らない。
卵(秩序・整ってる)→割れた卵(無秩序・乱雑)
この無秩序とか乱雑さとかをエントロピーと言って、
この世界のものは必ず、整ってるものが、乱れていくよね?
つまりエントロピー(乱雑さ)が増えるよね?
という法則です。
逆に乱雑なものが元の整った状態になるのって、
すごい難しいよね?
というものです。

さて、この「エントロピー増大の法則」が天国のトイレとどう関係があるの?
ということなのですが、
大ありなんです。

そもそもこの世界の生物が、「エントロピー増大の法則」に反して、何で体が整ったまま維持できているのか、ということを考えてみます。

最近考えられているのは、「動的平衡」と言って、
体はずっと崩れている(エントロピー増大している)んだけど、ちょっと先回りして新しく作っているから、生命が維持できている。
というようなものです。

食事をして、細胞が新しく入れ替わることで、崩れていく体を維持しているわけですね。
つまり、食事をいう行為は、カロリーや栄養を摂るという側面のほかに、「体を入れ替える」という側面もあると言えます。
そしてトイレに行くという行為は、食べ物の不要な部分を排出している部分もありますが、実は古くなった体の一部も排出しているわけです。

つまり、この「動的平衡」を考えると、天国での食物がいかに完璧で無駄のない食事だったとしても、「自分の体を入れ替える」為に、古い体を排出しなければならない。
つまりトイレに行かなくてはならない筈なんです。

さぁ、ここでもう一度「エントロピー増大の法則」を考えてみます。
ボクはそもそも「エントロピー増大の法則」は、人間が罪を犯した結果
できた物理法則なのではないか?
と仮定してみたんです。

聖書では、天の御国は「永遠」だと語っています。
つまり、「滅びることが存在しない世界」なのです。
諸行無常ではない世界なのです。
これは、「エントロピー増大の法則」のない世界なのではないでしょうか?

そうすると、人間の体が朽ちていかないので、「動的平衡」をとる必要がなくなります。
つまり、生命維持のための食事は必要なくなるわけです。

しかし天国では食事がありますね?

彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる
彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。
わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである。
彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。
彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。
彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。
おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。
彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。

イザヤ書65:21-25

ということは、きっと天国の食事と、この地の食事は意味が違うものなのだと思います。
霊的なものを満たしたり、喜びのためにあるのではないかなと思います。

つまり結論として、
「エントロピー増大の法則」がない天国では、生き物は「動的平衡」によって生きるのではなく、完璧な朽ちない体を持つようになる。
そして食事は霊的な食物を、霊的な充足のために食べる。
ということは、
トイレにはいかない筈である。


長々とくだらないことを話してしまい、すみません笑。

こんな風に天国のことを考えると、とても楽しいです。
ちなみに天国には「エントロピー増大の法則」がないという仮説で考えると、
天国で夜がないこと
や、
時間という概念が変わる(永遠とは何か)
ことなどが説明できたりもするんです。

今回は長くなってしまったので、この辺で終わりにしますが、
またどこかのタイミングでお話しできればと思います。

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