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感知する力

以前からずっと不思議に思っていたことがあって、「僕たちはその言葉を知らなくても分かってしまう」ということがしばしばあります。
それは、知らない言葉で歌っていても「この人歌うまい」ということが分かるのと同じように、知らない言葉で書かれていても「この文章うまい」とか、知らない言葉で喋っていても「この人頭良い」とか「わ、ユーモラスな人!」など何故か分かってしまう。
つまり、言葉が意味する部分以外で感知している範囲が広いっていうことです。
内容は分からなくても、優劣や自分の好みっていうのが分かるんです。
これって素晴らしい能力だと思います。


言葉から飛躍します。
音感はさらに特別で、ちょっとした鼻歌やハミングを聴けば〝その人がどれくらい歌がうまいのか〟がなんとなく分かりますよね。
3秒あれば十分なくらいに。
演劇の世界でもそうで、映像や舞台に登場してから30秒もあればその役者さんの技量っていうのは分かってしまう。
「演技下手だな」っていう人がそこから印象を巻き返すことに成功した例は今までないのではないでしょうか?
もっと言うと、僕は落語が好きで、たまに寄席に足を運ぶことがあるのですが、腕のある落語家さんは喋る前から既に面白かったりします(たとえ初見であったとしても)。


歌ならば「心を込めた歌唱」、演技ならば「台詞を喋った箇所」、落語ならば「ネタの部分」といった〝点〟だけで評価を下していると思い込んでいますが、実はそうではなくて、全体が醸す情報を恐ろしいほど鋭く感知して判断材料にしているんです。
ジェスチャー(身振り手振り)や、文体のフォルムや、声のトーンや、テンションの圧力、醸す空気感。


そして、話は可視化できない世界へと展開します。
僕たちは目に見えるもの、耳に聴こえるもの、手に触れられるものが全てだと思っている節があります。
でも気圧は可視化できないし、超音波は耳に聴こえないし、細菌に触れることはあっても実感を伴った感触はそこにはありません。
これらの話は微妙にスライドして「オーラが見える人、見えない人」といった眉唾めいたところに終着してしまいがちなのですが、そういうことではなく。




例えば「1/fゆらぎ」というものがあります。
川のせせらぎや、蝋燭の炎の揺れ、蛍の光の点滅、木漏れ日。
それらの放つピンクノイズ(雑音)が見る者、聴く者にリラックス効果を与えると言われています。
音楽でいえばモーツァルトの曲、美空ひばりの歌声には1/fゆらぎがあるというのは有名ですね。
1/fゆらぎは耳には聴こえません。
それでも身体が反応して脳内がα波の状態になるのです。



以前、とある文章を読んだのですがそれが僕の心に留まりました。
それは「自然の音を聴くと寿命が延びる」という内容です。
人間の聴覚は2万Hz以上の高さを超えると感知できないのですが、実はその2万Hz以上の音波が人間の身体(精神)に良い影響を与えているというのです。
「聴こえない音が健康には重要」なのです。
実はCDは2万Hz以上の音をカットして製品にしています。
つまり「人間が聴覚で感知できる範囲の音」だけを切り取っているのです。
そうしなければコンパクトな円盤状には収まらないし、コストがかかり過ぎるという理由によります。
これは、「僕たちはCDでは〝本当の音楽〟を聴いていない」ということを意味します。
CDを聴いた時に感じる印象とライブに行った時に抱く感動が違うのはご存知の通りです。



ここ最近、〝アナログレコードへの回帰〟という風潮があります。
「もう一度、ターンテーブルでレコードを聴こうよ」という感性の鋭い人たちが増えてきました。
彼らはアナログレコードにノスタルジーへの憧憬だけでなく、CDとは違った質感やファンタジー性に気付きました。
「なんか違うぞ」と。
CDとの違いはデータの保存方法をデジタルにしているかそうでないか。
電気信号によって音の幅をカットしていない分、2万Hz以上の音域もカバーしてあります。
そこに流れていた〝音〟をそのまま記録したもの。
耳には聴こえていないかもしれませんが、身体は感知しているのです。



さて、ここでようやく文頭に書いた「僕たちはその言葉を知らなくても分かってしまう」ということの答えのようなものが兆してきました。
明確な答えは当然ながら出てきません。
1/fゆらぎやアナログレコードの話はほんの一部に過ぎないことは想像に難くありません。
しかし、これまでの文章から分かることは「僕たちはいかに狭い幅で物事を見ているか」ということです。
ブルース・リーも映画の中で「Don’t think. Feel」と言っていましたが、その「Feel」を超えた部分、つまり意識を超えた部分までも感知の範囲内なのです。
頭で考えていることは全体の中のほんの少しのこと。
思考を取っ払って、ビンビンに五感を研ぎ澄ませたとして全体の内のほんの何割くらいかしか知覚できていないような気さえします。
もちろん〝経験知〟というのもあるでしょうし。



そして「案外、〝経験知〟が最も頼りになるのではないか?」というのが今のところの僕の結論です。
すばらしいもの、一流のもの、美しいものを体感する。
自分というフィルターに通すことで、知覚を超えた何かが己の中で蓄積されていく。
そしてそれらの経験知が、言語化可能な域、さらには知覚を遥かに超えた域での審美眼を育てていくのではないでしょうか?
絵画、音楽、映画、小説、詩、書、料理、酒、建築、写真、香り…
あらゆる芸術や自然の美に触れ、体感し、経験知を獲得していきたいですね。


「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。