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吉田塾日記#8【犬童一心さん】

クリエイティブサロン吉田塾

山梨県富士吉田市、富士山のお膝元でひらかれるクリエイティブサロン吉田塾。毎回、さまざまな業界の第一線で活躍するクリエイターをゲストに迎え、“ここでしか聴けない話”を語ってもらう。れもんらいふ代表、アートディレクターの千原徹也さんが主宰する空間です。第八回のゲストは映画監督の犬童一心さん。

犬童さんと千原さんの出会いは、犬童さんが監督したドラマWOWOW連続ドラマW『グーグーだって猫である』から。広告とタイトルデザインをれもんらいふが担当し、作品の中でも千原さんが出演している。

千原さんの初監督作品『アイスクリームフィーバー』が2023年夏に公開される。その経緯もあり、二人の監督による対話は特別なものとなった。犬童さんから千原さんへのインタビューは、今までにない濃密な時間を体験させてくれた。

※今回のテキストでは「見る」と「観る」の語用を使い分けている。「見る」は見えている(受動的な)感覚として、対して「観る」は主体的な感覚として。


人生と映画

当時から、映画マニアだった。

小学生時代から犬童さんは、映画が大好きな少年だった。当時、メディアはテレビがメインストリームとなり、映画産業は斜陽を迎えはじめていた。映画館は次々と閉館し、犬童さんが住んでいた世田谷も例外ではなく、年に一度両親に連れられて新宿の映画館に行くくらい。

犬童さんにとって、映画はテレビで観るものだった。毎日、15時から日本語吹き替えの洋画が放送されていた。学校から帰宅すると、それを観て過ごすことが習慣だった。

中学は私立の中高一貫校へと進学する。電車通学となり、学校帰りに名画座を訪れ、ひたすら映画を観て回った。銀座、亀有、浅草、飯田橋、自由が丘……映画館を巡る中で、東京の街を知ってゆく。

文化祭で、高校生が自主制作をした映画を上映していた。どれを観ても、つまらなかった。食事シーンのフィルムを逆回しして、食べているものを吐いているように見えるギャグに周囲は笑っていた。犬童さんは、マジメに“映画”を撮りたかった。

中学二年の時から「映画を撮りたい」と思いはじめた。

自分の方がうまく撮れるはずだ。

17歳の時、父に8ミリカメラを買ってもらった。

その頃、大学生たちが集まり、自主制作した8ミリ映画の上映会をひらいていた。彼らの映画を観て、8ミリ映画の風合いを知る。多くは、映画やドラマの真似事。

刑事ドラマのようにスーツを着て銃撃戦をしたり、深作欣二作品に影響を受けたであろう任侠もの、あるいは、ホームドラマの雰囲気で学生が下手な演技をしている。ほとんどがつまらない。

それを観て、「オレは勝てる」と思った。

それらはすべて、何かを模倣したものである。志を感じない。真似をすることは勉強することでもあるから悪いわけではない。ただ、それらは「真似をしたい」が前に来ている。数多の大学生の自主制作映画を観る中で、一組だけ驚異的なグループがいた。

そのグループにいたのが、学生時代の黒沢清だった。

忘れもしない、はじめての出会いは『スクールデイズ』という8ミリ映画。それを観た時、「この人は、天才だ」と思った。

千原さんが「他の学生たちと何が違うの?」と問うと、犬童さんは答えた。

志が違う。

黒沢さんは、映画を本気でつくろうとしていた。それは、既存の作品の真似事ではない。そうでなければ、8ミリで映画を撮る意味がない。

黒沢さんのようなつもりで映画をつくらなければならないと思った。この人と同じくらいの志を持つこと。そして、8ミリ映画でもそれをするだけの価値があることを確信した。

8ミリカメラは、プロが使用するカメラに比べて機能が乏しい。俳優も学生しか出ていない。ロケーションも大学構内がほとんど。それでも、黒沢さんの映画は圧倒的におもしろかった。

「真似事ではなく、ちゃんとつくれるんだ」

そして、犬童さんは8ミリフィルムで一時間の作品を撮った。はじめての映画制作だった。

制作費は10万円。8ミリカメラがあると言っても、フィルム代や現像代には費用がかかる。

その後、犬童さんの人生の中で10億円をかけて映画もつくった。

ただ、10万円の自主製作映画も10億円の制作費をかけた映画も、そこまで差はない。

計画を立て、遂行する。それを積み重ねてゆき、撮影し、編集し、音と音楽を入れ、人を集め、観てもらう。その大きな工程や、一日のプロセス、ストレスや真剣さには違いはない。公開した映画は20本を超えるが、それは17歳の頃からずっと変わらない。その日その日を積み上げてゆくと、映画ができている。

17歳の時、映画を撮りはじめた根幹。映画マニアではあったが、強い表現欲求があったわけではない。それよりもずっと“映画”という構造に興味があった。

小学生の頃からずっと観てきているけれど、映画がどうできているのかわからなかった。観ているとおもしろい。内容にも感動する。ただ、なぜこのシーンでクローズアップしたのか、ロングショットにしたのか、下から撮ったのか、上から撮ったのか、どうして演技する俳優を追ったのか。何をもってそうしたのかがわからない。その中で、確かにストーリーは進んでいるのである。

自分がつくり手側に回った時、“撮る”という行為を通して、映画の構造について理解できるのではないだろうか。そのような欲望があった。

一時間の作品。編集して音も入れた。文化祭は二日間。人生初の監督作品の上映を迎えた。学校内にある映写機は30分のリールしかかからない。時間が来ると、リールチェンジをしなければならない。フィルムを交換するために会場の電気をつけた。すると観客は席を立ち、ぞろぞろと出て行った。まだ映画は半分なのに。

今考えれば、最後まで観る人がいたらそちらの方が変だと思う。相当ひどい映画だっただろうから。でも、つくり手としては最後まで観てほしい。

初日は一時間見てれくれる人がいなかった。上映会が終わると、すぐ編集に取りかかった。作品を最後まで観てもらうためには、ワンロールに収めなければならない。膨大な時間をかけてつくった一時間の作品を、一晩で30分にした。

この夜の経験は、いまだに生きている。

長くてつまらない場面、自分だけが「いい」と思っている場面。それらをすべてカットしていった。厳しく、純粋な目で。

僕にとって“大好きな場面”というのがわかるんです。それが必ずしも、他の人にとっていい場面であるとは限らない。

自分だけが「いい」と思っている部分、「本当だとこうなんだ」という場面を省略することは、映画という表現には向いている。省略することで、受け手は考える。なくなったシーンを自分の想像でフォローする。編集をしながら、それがありありとわかる。


Interview
【犬童監督から、千原監督へ】

これまでの話は、人生初の映画監督作品を迎える千原さんへ向けた質問をするための準備だった。「監督」という立場でなければ訊けない濃密なインタビュー。極上の対話の時間である。犬童さんの質問内容を含めて、じっくりと楽しんでください。

犬童:千原さんが映画を観ることが好きなのは知っています。ただ、千原さんのデザインの仕事を観ていても、映画の影響を強く感じることがない。映画を観ることが、デザインや広告の仕事にどのように影響しているのかが気になります。

千原:一部としてはそれが現れているものもあるとは思うのですが、前提として“広告”というアウトプットでは自分のやりたいことを持ち込めない。

ただ、デザインの仕事はソウル・バスの影響です。映画のタイトルデザインの分野を確立した人物。肩書はグラフィックデザイナー。

ビリー・ワイルダーの『七年目の浮気』、ロバート・ワイズの『ウエスト・サイド物語』、ヒッチコックの『サイコ』など、挙げればキリがないほど数々の名作のオープニングのタイトルデザインを手がけた。

僕自身、もともと映画に関わる仕事に憧れを抱いていました。俳優、監督、照明、音響…何かはわからないが映画に惹かれていた。ソウル・バスを知り、そこでデザインという入口があることに気付いた。デザイナーでソウル・バスが入口になっている人は、ほとんどいないと思います。

犬童:僕の場合は、8ミリ映画を撮っていて、CMディレクターを経て、映画監督になった。企画して、撮影して、編集して、上映する。作業工程はほぼ変わらない。でも、デザイナーから映画監督はちょっと遠いよね。どうして“映画を撮る”というところまでやりたくなったの?

千原:それは、伊丹十三監督の影響だと思います。伊丹監督は映画監督に至るまでに俳優、エッセイスト、雑誌編集長、グラフィックデザイナー…とさまざまな顔を持っていた。紆余曲折あり、50歳の時に『お葬式』で監督デビューを果たします。僕も50歳になったら映画を撮りたいと思った。

犬童:違う経験を積み上げて映画監督になった“伊丹十三”というロールモデルがいたんだね。ドラマ(『東京デザインが生まれる日』テレビ東京)を撮ったりしていたのは、ある意味映画を撮るための練習だったの?

千原:そうですね。ただ、ドラマの感覚と映画の感覚は全く違う。

犬童:どういう風に?

千原:ドラマの時は、視聴者に誤解のないように伝えることが大事で。セリフや見せ方に関して、伝わりやすい表現を模索することが求められた。また、撮り方にもドラマの様式があることを知った。手順に則らなければ進めづらい。

映画の場合は、観客に考えたり、想像してもらうような余白を意識しています。そういう意味では、より純粋に自分の欲望に忠実に撮ることができている。その違いを感じることができたのは、ドラマを撮った経験があったからわかったことでした。

犬童:迷うことはない?

千原:あります。

犬童:その時は、誰かに相談する?それとも一人で考える?

千原:一人で考えますね。先日、キスシーンを撮る時に、自分の中でまだ迷いがあった。撮影時間が来てもまとまらなくて、一時間休憩をもらった。誰に相談するわけでもなく、一人で考え込んだ。

今回、主演が二人いて、その内の一人のセリフを話す速度が想像していた三倍くらい遅かった。「思っていたのと違う」と思ったけれど、一旦それを受け止めて、「彼女の速度に合わせて撮るとどうなるのだろう」と撮影を進めてみた。すると、もう一人の主演の方が「この速度に合わせるのね」と気付いて調整してくれた。主演の女優さんのゆっくりな話し方のおかげで、全体の演出のトーンやリズムが決まっていった。結果的にそれがよかった。

形式や設計図よりも、好奇心を優先できるのが映画のおもしろさかもしれません。

犬童:俳優の演技に関しては、押し付けない?

千原:演技に関しては演出しません。キャスティングした時点で「そのままでやってほしい」と思っていたので、その人の感じで演技してもらうようにしています。

犬童:ビリー・ワイルダーも「キャスティングが一番の演出だ」と言っている。はじまってしまえば、もう覆せない。

千原:高校時代、映画館でバイトをしていたのですが、そこで観た『大島渚全作品』というドキュメントフィルムが印象に残っています。

その中で、大島監督は「キャスティングでほぼ決まる」と言っていた。映画俳優の中からキャスティングするのではなく、自分の作品にハマるであろうユニークな人を選ぶ。大島監督のキャスティング──ビートたけし、デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、横尾忠則などの起用はそこにある。

犬童:映画に期待するものは?───

ここで今回の90分に渡る対話の本質とも言える質問が置かれた。この解に到達するために、犬童さんはゆっくりと、我慢強く、下拵えをしてきたのだ。

その前に、犬童さんの商業監督に至るまでのダイジェストを。

大学を卒業後、犬童さんはCMプロダクションに就職する。助監督に進む道もあったが、映画ではお金にならないと思い別の道へ進んだ。

就職か、助監督になるのかどうするのかという時があった。助監督では収入が安定しないという理由で、CMプロダクションに入った。

CM制作を通してアニメーションをつくるようになった。もともとアートアニメが好きだったこともあり、おもしろくなってアニメ映画をつくった。その作品が、キリンコンテンポラリーアワードで最優秀作品賞を受賞する。スカラシップがあり、次回作への賞金をもらった。

それを元手に映画を撮った。一ヵ月間の上映後、キリンの人から「これは社会貢献事業だから、こちらが上映権を持っているわけにはいかない。権利をあげるよ」と言われた。

犬童さんはCM制作関係の友人を呼んで渋谷の現像所で試写をした。上映後、現像所が作品のコピー(VHS)を5本くれた。それをプランナーの友人である鈴木さんに一本譲った。彼が犬童さんの作品をたまらなく気に入っていたからだ。

その試写を観た後、鈴木さんがセンター街を歩いていると、前から市川準が歩いてきた。当時、“巨匠”と呼ばれていた映画監督であり、CMディレクターである。仕事の関係で市川さんと顔見知りだった鈴木さんは「友人がこういう映画をつくったんですよ。おもしろいから観てください」とVHSを渡した。

この瞬間、見えない歯車がカチリと音を立てた。

一ヵ月後、市川準さんから会社に電話があった。

「会えないか?」
「わかりました」

二つ返事で答えました。相手は“巨匠”ですから、僕に選択の余地はありません。

夜中、銀座にあるホテル下のレストランに待ち合わせた。

「オレの映画のシナリオを書いてくれないか?」

その場で、市川準から頼まれた。市川準は、犬童さんのCMはおろか、今まで撮った自主映画も見ていないのだ。そして、犬童さんの作品にお墨付きとなる文章を添えてくれた。

これを読んだ二組の映画賞の組織から「市川準さんがこれだけ褒めるのだから、見せてくれ」と連絡をしてくれた。すると、その二つの映画賞でグランプリとなった。そこから配給会社から「公開させてほしい」と連絡があった。かくして、映画は公開された。

その後、市川さんから連絡があった。

「前にシナリオを頼んでいた映画、撮ることになったから来てくれ」

それが『大阪物語』。女優、池脇千鶴の映画デビュー作品だ。そのシナリオを読んだ人から、『黄泉がえり』のシナリオ依頼が届く。さらには、『死に花』の監督と脚本開発のお声がかかった。

『大阪物語』で勢いがつき、池脇千鶴の主演二作目の『金髪の草原』で初監督デビューを果たす。経緯は「次の映画は、予算が厳しいので市川さんでは撮れない。だから監督をしてくれ」という流れだった。

鈴木くんがVHSを持ってセンター街を歩いていたから今がある。自分から進んで映画の道へ進んだわけではない。当時、CMの仕事が忙しく、締切で頭がいっぱいだった。その最中、市川さんが「シナリオを書いてくれ」と言ってくれたり、お墨付きをくれたおかげで今の道へと歩みはじめた。

───そして、話はメインの問いへと戻る。

犬童:千原さんは、“映画”に何を期待して撮ろうと思ったのだろうか。今や古臭くなり、大して期待されていない世界になったこの場所になぜ入ってきたのか。

千原:確かに期待されていないですよね。上の世代の人と話すと映画の話で盛り上がるのですが、20個くらい下の人と話しても盛り上がらない。みんな二倍速で見ていたり、 “観る”というより消費している感覚で。Netflixでも作品について語るというよりも、“見たか、見てないか”を確認している感じですよね。

僕の時代は、映画館に行くことが非日常な体験だった。おしゃれをして気分を高めて、映画を観て、パンフレットとポスターを買って…その一連が「映画」という体験だった。それをみんなにも感じもらって、「映画っていいな」と思ってくれたらうれしい。

犬童:僕もそうだ。好きな映画を観て、余韻に浸りながら映画館の近くでたい焼きを買って、今しがた観てきたばかりの作品について思索に耽りながら、山手線に乗り、家に帰る。それら含めてすべてが「映画」だった。

千原:ただ「見た」というだけでなく、映画にまつわるすべてを体験して味わってもらえるとうれしいです。



映画鑑賞は創造行為

最後に、強く印象に残った犬童さんのことばを。

映画って、できた時に人が観ますよね。観た人が、「勝手に映画を観ているんだな」ということがよくわかる。

ワーナーで『最高の人生の見つけ方』の試写会をした。500人の一般客を招き、完成前の作品を上映し、その後アンケートをとる。その500人の緻密なアンケートを編集へと反映させてゆく。そのアンケートを観て、驚かされることがしばしば起こるという。そこには、そんなシーンは存在しないのに、さも映画の中のシーンにあったかのように書かれている。つまり、観客が映画を観ながら勝手に妄想を膨らませているのだ。

自分が観ている映画が、脳内で勝手に編集されて、あなただけの映画になる。それがおもしろい。

映画には、その人の内側にあるものを触発する力がある。その人の経験と人生観とイマジネーションを誘発して、触発する。

それは、“僕の映画”ではなく、“その人の映画”になる。



観ること、味わうこともまた創造行為だ。

このテキストを読み二人の映画監督のことばと出会ったあなたも、ぜひ創造して、自身の世界を広げてほしい。



懇親会は、れもんらいふプロデュースの喫茶檸檬。お酒を飲んで料理を楽しみながら、ゲスト講師や千原さんとも一緒にお話できます。

ぜひ、会場まで足を運んでクリエイティブの楽しさを味わってみてください。



さて、次回の講義は一月二十八日。ゲスト講師は株式会社スマイルズ代表取締役社長の遠山正道さんです。

チケットの購入はこちらからどうぞ。会場用とオンライン用、二種類から選べます。


そして、わたしも制作にかかわっている本塾の主宰、千原徹也さんの著書『これはデザインではない』もチェックよろしくお願いします。


「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。