見出し画像

上品なラフと上質のラブ

乱暴にならない方がいい。
でも、整然としているのはつまらない。

それは決して乱暴に扱うのではなく。でも、ちょっとだけ崩れた方が色っぽい。そんな感覚に共感してもらえるでしょうか?

僕は写真や絵画が好きです。理由は言葉よりもずっと伝わるものが多いからです。言葉と比べ、写真や絵は解像度が高い表現です。それは「一点に膨大な情報量が詰まっている」ということを意味します。
「言葉」は非常に便利な道具ですので、その言葉が持つ「意味」を認識し、別の誰かに伝言することができます。「意味」というのは情報量を軽くしたものです。つまり、データを圧縮して解像度を低くしたもの。
目に見える風景やモノだけでなく、頭の中のもやっとあるもの、あるいは胸の内側のざわめきを、それだけで意味を持つ「言葉」という道具に変換する。その時、一見意味がなさそうな膨大な情報を取りこぼしてしまっています。
写真や絵には「意味への変換」の一工程がない。そういう訳で、それらは言葉よりもずっとプリミティブだと言えるのです。

「上手な写真」と「心が動く写真」

解像度の高い表現だからこそ優劣が明確に映ります。日々、タイムラインに流れてくる写真を見ながら首をかしげます。
上の両者は似て非なるものです。それは単に機材や技術の差ということだけでもないように思います。当然ですが、僕は後者に惹かれます。

前者における「いかにも」的な感覚にうんざりします。それは人のものを見た時よりも遥かに自分の表現に対して強く抱く感情です。「品がないなぁ」と感じてしまします。
乱暴にはしたくないけれど、整然としているのはつまらない。
そんな欲求を抱えながら、日々文章を書いたり、写真を撮ったりしています(この欲求が「いかにも」であることはさておき)。


今回は、僕の好きなnoteを並べながら、この言葉にならない感覚について考察していきたいと思います。


***


タツミコウゾウさん
『レイヤード論』


コウゾウさんは庭師です。弟のジロウさんと共にグリーンスペースという会社を営み、庭をつくっています。
庭づくりにおいて、『レイヤード論』の中でコウゾウさんはこのように述べています。

レイヤードの気持ち良さだったり違和感だったりズラしだったりがそのへんがつくり手のセンスであり個性だと思う。

素材や技術の見せ方を重ね合わせたところにある効果。それらめいめいの一点だけをつぶさに見るのではなく、重なり合った(レイヤード)全体を見ることが大切だと言います。
そこで感じる心地良さやある種の違和感が作り手のセンスなのだと。

以前、コウゾウさんとジロウさんを取材させてもらったことがあります。その時の話が印象的でした。
グリーンスペースの庭づくりは基本的にジロウさんが完成に近いところまで整えた後、最後にコウゾウさんが全体を見て、そこから手を加えていくようです。ジロウさんはそれを〝神の一手〟と呼びました。

どう手を加えるのかというと、ジロウさん曰く「ぐちゃっ」とする。
その「ぐちゃっ」が入ることで、全体の収まりがよくなるとジロウさんは言いました。その一手は、決して汚すというわけではなく、だからと言って洗練させるわけでもない。「ぐちゃっ」というのが最もしっくりくる表現だと笑いながら話していました。
それこそコウゾウさんの言った違和感やズラしなのかもしれません。

「丁寧なラフさ」

懇切丁寧な庭づくりの最後に、パラっとスパイスを一振りするような。
「庭」というものは、自然と人工の狭間を揺らいでいます。自然からノイズを排除していく。ただ、無機質になるところまで手を加えない。
そのちょうど良いバランスがそこにいる者に心地良さを与えるのだと想像します。


有賀薫さん
『スープ・カレンダー2019年9月』 

美しい、そして、健やかだ。

スープの佇まいが語るもの。
有賀薫さんのスープは、見るだけで健やかになります。やさしくて、潔くて、しおらしくて。目にすると細胞が溌剌とするのがわかります。大好きです。

これはもう「佇まい」としか表現できません。
言葉にできない喜びが写真の中でそこかしこと飛び跳ねています。このぴょんぴょん楽しそうに光っているものが、言葉に落とし込んだ瞬間につまらないものになります。大切なことは常に「意味」として変換する際に取りこぼしてしまうのです。

「上品なカジュアルさ」

調理というのは最も人間的な営みの中の一つです。有賀さんのスープ写真から受ける印象は、その洗練された技術に全てが収斂されているわけではなく、素材へのリスペクトや慈しみがあふれています。その気軽な上品さがなんとも心地良いです。
まさに自然と人工の絶妙な調和がもたらす不思議な現象です。


土井善晴さん

「上品なラフさ」

「こう見せよう」という意図を感じさせない奔放なラフさの中に、清々しさとときめきがあります。
土井さんの日常にある、強く生活と紐づいた料理たち。それを見る度に、整然とされ過ぎている様々な事象がひどくつまらないと感じます。
コウゾウさんの「一部を見るのでなく、全体を見よ」という言葉と結びつきます。

「佇まい」は、あらゆる要素がレイヤードされた全体に現れる。

土井さんが料理の領域でしていること。
僕はこういう写真撮りたいし、こういう言葉を書きたいと強く憧れます。



ワタナベアニさん
『橋の上から見た夕陽。』


ワタナベアニさんの写真は解像度がとにかく高くて求心力があります(この場合の「解像度」は、このnoteの冒頭で使用した意味における「解像度」です)。
写真は瞬間を切り抜いた表現であるにも関わらず、アニさんの写真にはその瞬間の前後が集約されています。過去と未来の揺らぎを含めて一枚に閉じ込めている、という印象です。


なぜか分からないのですが、僕はこの写真を見て涙が出ました。
アニさんの言葉も添えられていますので、どのような状況なのかということは受け手が理解することは難しくありません。ただ、写真だけだとしても様々なことが想像できます。それは、添えられている言葉通り「やさしさ」に近い感覚だと思いますが、もっともっと複雑なことが胸の中で起きています。
解像度が落ちてしまいますので、あえて言葉にはしません。最も大事なことは「理由がわからないけれど涙が出た」ということなのです。
整然とされていないけれど、絶妙に調和されている。膨大な意図はあるはずなのに、「いかにも」が見えない。ラフさに品性を感じます。

「隠された品格」

「いかにも上品に見せよう」という念を極限まで削ぎ落としていった結果、それが品格として映る。アニさんの写真に感じる上品さはこういうことなのではないでしょうか。


僕の想像ですが、みなさんに共通していることは、「そのままやれば、きれいになってしまう」というわだかまりがどこかにあるような気がします。整然とされることに対するアンチテーゼ。「いかにも」という品の無さに対する反骨。
レイヤードによって一つひとつの要素を巧妙に隠していく。それらが受け手の無意識と呼応し、理由のつかない感動を引き起こす。
そしてこれは、アニさんの写真を見て僕が泣いた構造です。


アニさんのnoteのこの一節がまさにこのことを示唆しています。

映画や文学への感想で、「わかりやすかった」「読みやすかった」というのが多いのに驚く。つまり、わかりにくく、読みにくいものだという前提から出発している。わかりやすく読みやすいものがイコールいいものだ、と考えるような受け手がいることは構わないんだけど、そこにターゲットを定めた作り手を見るのは苦痛だ。



サトウカエデさん
『ふいに、お酒がとかすもの』 


サトウさんは一つひとつ確かに選んだ言葉によって、丁寧に物語を伝えてくれます。
このnoteでサトウさんはお酒の素敵な効果を教えてくれました。
誕生日に旦那さまとレストランに行った時の話です。彼女がワインを注文すると店員さんにうまく伝わりませんでした。その理由は、彼女が住んでいるのはニュージーランドであり、(母国語ではない)英語で注文する必要があったためです。

相手が意味を理解しようと眉を寄せた瞬間、ヒュっと身が固くなるのがわかる。厄介な自意識の高さが原因だ。「伝わる言葉を話せない」そんな自分に嫌気がさす。

この中に出てくる〝厄介な自意識〟こそ、度々登場してきた「いかにも」の正体なのではないかと気付きました。そして、〝厄介な自意識〟は誰の心にも存在します。

サトウさんはそれをお酒で溶かしていきました。

伝わらなければ、伝わるまで違う言葉で何回も話そうって思える。恥ずかしいとか、こうありたいとかいう自分を片隅に置いて、目の前の人との会話を楽しもうって、素直に思える。

着込んでいた重たい服を脱ぐように、お酒によって〝厄介な自意識〟を溶かして身軽になる。溶かしていくことで、「伝えたい」「受け取りたい」という最も大切なところへ意識が届く。
サトウさんの描いたこの物語と出会った時に、いろいろなものが繋がりはじめました。

「芸術というのは、この感覚なのかもしれない」

コウゾウさんの庭も、有賀さんのスープも、土井さんの料理も、アニさんの写真も。上品なラフさは、この〝厄介な自意識〟を溶かした先にあるんだ。
この「溶かす」という表現が最もしっくりきました。重ねたり、引いたり、整えたり、崩したりした後、溶かすんだ。
溶かすことで自然な佇まいとして浮かび上がってくる。

僕は何度もサトウさんのこのnoteを読み返しました。


***


勝手にいろいろ書いて失礼しました。
ここで紹介した人たちは「上品なラフと上質のラブ」を僕に教えてくれた先生です。それぞれの表現、それぞれの哲学に、めいめいの品格と愛情を感じます。批評ではなく、ラブレターとして受け取ってもらえると幸いです。

乱暴にならない方がいい。
でも、整然としているのはつまらない。

それは決して乱暴に扱うのではなく。
でも、ちょっとだけ崩れた方が色っぽい。


4000字書き連ねたにも関わらず、答えは出ていません。
ただ、冒頭の言葉のヒントは見つけることができたように思います。

問題の解決はできませんでしたが、次のステップへ問題を提起することができたように思います。
長文お付き合いいただきましてありがとうございました。

「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。