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全景千原005

憧れてきた存在。
アートディレクター千原徹也の原風景。

空想における「憧れとの対話」によって、千原少年は〝自分の中の宇宙〟を豊かにしていく。

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伊丹十三

千原
同時期に伊丹十三監督にも夢中になりました。

『マルサの女』『ミンボーの女』『スーパーの女』などの女シリーズ。伊丹監督が亡くなり幾星霜、後にテレビでも放送されていましたが、劇場公開されていた時期にリアルタイムで、映画館で見ることができたのは僕の人生における財産です。

伊丹監督もタイポグラフィや構図のおもしろさはもちろんのこと、政治的にも踏み込んだ内容の作品づくりにも刺激を受けました。伊丹監督は放送作家でもあり、また文筆家でもあったので、彼の関わった昔の番組をDVDで見たり、エッセイを読んだりしていました。

〝伊丹十三〟に詳しくなればなるほど、自分の世界が広がっていくような感覚がありました。「勉強している」という意識でもなかったのですが、伊丹監督のことを知れば知るほど世の中について学ぶことにつながっていったように思います。

絵も巧いのですが、文章がとてもいい。言葉遣いや言い回し、それらが今、僕が文章を書く時に生きています。


小西康陽

千原
文章の巧さでいうと、小西康陽さんもとても魅力的でした。美しく、エレガントな文章をお書きになります。

小西さんはピチカート・ファイヴというグループで音楽をされていて。音楽とファッションと+αになる要素とのカルチャーミックスの音楽チームでした。

ピチカート・ファイヴを追うことで、60年代のアメリカのソフトロック、バート・バカラックなどが音楽の教養として入ってきた。タイポグラフィやデザイン、そういうものがおもしろいと思いはじめたのも、ピチカート・ファイヴのアートワークによる影響です。カメラマン、ヘアメイクなど、作り手側に強く興味を抱きました。

藤子先生、手塚先生が好きな頃は「漫画家になりたい」。
スピルバーグまでは「映画監督になりたい」。
市川監督、伊丹監督、小西康陽さんの流れで、デザインへ興味が出てきた。


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ソウルバス

千原
そして、タイポグラフィと映画の流れでソウルバスという人物に辿り着きます。彼は映画のオープニングタイトルをつくっている人で、その肩書は〝グラフィックデザイナー〟でした。その職業に憧れたのは紛れもなく彼の影響でした。

古くは『ウエストサイド物語』の映画のタイトル───ミュージカルはもう数えきれないほど公演しているのですがソウルバスがつくったロゴは変わっていません。映画のタイトルだけでなく『ミノルタ』というカメラの会社の企業ロゴも手掛けています。


佐藤可士和

千原
2000年のADC年鑑に掲載されていた佐藤可士和さんの作品を見て衝撃を受けました。それまでの僕は、京都に住み、大阪のデザイン会社でマクドナルドのクーポンをつくっていました。

ボーナスもよかったですし、京都での生活も「クリエイティブだ」と感じていました。ライブハウスのフライヤーを制作したり、古着屋の友人のカタログをつくったり。マクドナルドのクーポンはライスワーク、京都の友だちとつくるものはライフワーク。

その時まで「自分って何なんだろう?」という疑問もなかった───なかったから、その仕事を5年も続けることができたのだと思いますが。僕が今まで見てきたアートワークなどにはADC(Art Directors Club)という概念がなかった。

可士和さんの広告を見て、上京することを決めました。

28歳───2003年に東京へ。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。