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「気づき」の正体

医療、介護の現場では「気づき」を大切にする。

新人なんかが現場に立つ前に受ける研修でも、先輩やら外部講師やらが来て「医療、介護の現場では気づきを大切にしよう」的な話をする。
それを聴いた新人たちは一生懸命に気づこうとするが、大抵うまくいかない。

そして研修を終えていざ現場に出ると、「最近の若いもんは気づきが足らん」って小言を言われてしまう。

そもそも「気づき」とは何か?

明確な定義はないと思う。

「気づき」が大切だと言う人にはたくさん出会ってきたが、まともに「気づきとは○○だ」と言えている人はいなかった。
少なくとも私の周りには。

ちなみに、私は職場でも、また外部であっても「気づき」が足りないと言われた事はない。
むしろ「よくみていたね、それ気づきだね」とか「いい気づきだった」と言われることが多い。

もちろん、私も何が「気づき」なのかよくわからないが、周りからみていると「気づいている」らしい。
本人は気づいていないけど。


今日この頃、自粛生活でインプットの時間を増やしてみた。
そこで気づいたことがある。

「気づきの正体」だ。

気づきの正体に気づくって変な駄洒落になってしまったが、「気づきってつまりこれのこと?」というのが少し見えた。

今日はこの「気づき」の正体について書いてみようと思う。
ではいってみましょう!


「気づき」の事例

まず、「気づき」とはどんなときに言われるかを紹介する。

事例1 薬局外来待合室にて
私が投薬担当として外来に立っているとき、ある1人の80歳代ぐらいの女性が外来に来た。
いつも通りスタッフが処方箋を受け取り、調剤を始める。
女性は待合室のソファで待っている。
薬の用意ができたので、私は薬歴を確認。
いつもの内科の薬、血圧の薬やら3種類ほど。
そのとき、チラッと女性をみると「おや?」となった。
「もしかしてあの方。。。」
とりあえずそのまま投薬台に行き、女性を呼ぶ。
女性がソファから立ち上がる姿をみて「やっぱり、たぶん。。。」

山口「こんにちは」
女性「こんにちは」
山口「体調はいかがですか?」
女性「特に変わりはないです」
山口「そうなんですね」

山口「ところで、お膝痛むんですか?」
女性「え?」
山口「右膝、痛みますか?」
女性「あぁ、そうなの。膝がどうも痛くてねぇ」
山口「それは辛いですね。もうずっとですか?」
女性「そうなの。もう諦めてるんだけどね、歳だし仕方ないかなって」
山口「なるほど。。。」

こんな会話があった。
膝が痛いのが辛く、あまり出歩けないのが辛いと。
お友達と散歩に行ったりするのが好きだったけど、痛みがひどい時は遠慮していることにしていると。
過去に痛み止めは飲んだことあるけど、あまり効かなくかったし、薬をいろいろ飲みたくないからやめたとのこと。
話を一通り聴いて、私は店舗にある漢方薬の市販薬をお勧めした。
あまり薬は飲みたくないと話していたが、お勧めすると一度飲んでみますとのことで、2週間分ほど買われて帰宅。

数日後に女性が再来局された。
私は不在だったため、他のスタッフが対応してくれていたが、そのスタッフが言伝を預かっていた。
『非常に膝が楽になりました。ありがとうございます。また来ます』
そう言伝て、追加で同じ漢方を購入して帰られたそう。

私はどうして女性が右膝を痛めているとわかったのか?
調剤した薬は定期で飲まれている生活習慣病の薬。
薬から想像したわけではない。
私は女性のある仕草をみたのだ。

『右膝をさすっている』

薬歴を確認しているときに、パソコン越しに女性をみたときに右膝を少しさすっていた。そして、投薬台に呼んだとき、立ち上がる女性をみて「やっぱり」と。

『右膝に手をついて立ち上がっている』

特に杖やら歩行器を持っているわけではないので、足腰がそこまで悪いわけではなさそうだが。
薬歴をみても、お薬手帳をみても、特に既往歴はないが、「右膝痛むんじゃないか?」と思って話をしてみた。

女性はどうやら薬に関係のない部分での身体の不調を気にしてくれたこと、また、それが今困っていることだったことが嬉しかったらしく、漢方を買ってくれて、またそれが効いたもんだから、わざわざまた薬局に足を運んでくれたようだった。

まさに「気づき」と言われる事例の一つだろう。

これはもう今から2年ほど前の話し。
当時、この話をある人にしたときに「その方法論を他に伝授できないか?」と言われた。
咄嗟に「できると思います」と答えた。
しかし、いざ伝授しようと思うと、何から伝えたらいいのか?

この女性が膝を痛めていることを、膝をさすったり、膝に手をついたりする仕草から読み取り、服薬指導の中で聞き取った。

これを伝えるだけならすぐにできるが、この女性が同じ仕草やシチュエーションで来る事はもうない。あったとして、すでに膝の痛みがあることは自明で薬歴にも残してるため、仕草を確認しなくたってわかる。

今後、別の方が来ても同じように考え、声がかけられるか?
そこが重要になる。

とはいえ、人が変われば仕草や訴え方も変わる。

事例はあくまで個別的な事象。

一般化していかないと人に教える、伝授することなどできない。
私はこの2年間、この事例を一般化できずにいたが、ある種一つの道筋がたった。

それが「気づきの正体」ではないかと思う。


3つの罠

「気づきの正体」を考えるときに3つの罠がある。
「観察力」「想像力」そして「経験」だ。

新人が「気づき」を持てない理由として大きくこの3つがよく言われる。


「観察力」

『よく患者さんをみなさい。』

若手の皆さん言われませんか?
また、ベテランの方々も若かりし頃、そう言われたのではないでしょうか?
観察力は大切です。
この事例においても、私は女性を「観察」することで気づきを得ました。
観察することこそ、気づきの第一歩だと言われたりもする。

確かに、観察しなくては気づきを得る事はできないでしょう。
観察することが、気づきを得る為の第一歩であることは、私もそうなんだろうって思う。

しかしこれが一つ目の罠。

いくら観察したって、気づきの力は得られない。
すでに、気づきを得ている人にとって、観察は第一歩だが、気づきを持っていない人が観察しても、特段何かが変わることはない。

「気づき」は観察から始まるが、「気づきの体得」は観察からは始まらない。

この勘違いが、罠なのだ。


「想像力」

『患者さんの気持ちを想像して』

これもよく言われる。
誤解を恐れずに言わせてもらうと、私はこのが言葉大嫌いだ。
「患者さんの気持ちに寄り添える医療者になりたいです」
こういう学生や若手に出会うことは多いが、正直いって、これをいう人のことを私は信用しない。
何も「患者さんのことなんか考えるな」「患者さんのことなんかどうでもいい」ということではない。
むしろ私は「医療は患者のためにある。医療人の自己満足にするな。」常に言っているぐらいだ。誰よりも「患者のためには」を考えている自負はある。
だからこそ、この言葉が嫌いなのだ。

はっきり言って「患者さんの気持ちなんてわかるわけない」のだ。

私と今この記事を読んでいるあなたが違うように、私と患者さんは別の人間で全く異なる人間だ。
生きてきた場所も違うし、見てきたものも違う。性格だって違うし、体格も違う。価値観も違うし、思想も違う。
同じ「人類」という点を除けば、同じところなんてあろうか?

そんだけ違う人を相手取って「想像しろ」と言われても、、、私にはできない。
何も見えてこない。

むしろ、そんだけ違う相手のことを「想像できた」と思っている方が私は怖い。

私の仕事の中からもう少し詳しく説明する。

事例2 90歳代女性 有料老人ホームへ入居

私が居宅療養管理指導(いわゆる在宅医療)を担当している施設に入居されてきた。
病状などは特段大きなものはなく、薬もほんの少しだけしか服用されていない。

この方のお部屋に行くと、私は毎回2−30分は出てこない。
女性が私と話していると泣き始めてしまうからだ。

「悔しい。。。」

いつもそうおっしゃている。

話を聞いていいると、6人ほどの兄弟で生まれ、一番下を除いたらみな女性。この方は確か2番目か3番目。弟とはけっこう歳が離れているそう。

女性は戦後間もない日本を生きてきた。兄弟を守るべく、仕事もたくさんした。

唯一の男である一番下の弟を皆で可愛がってきたと。

そして、90歳まで生き、この度、施設に入居された。

ただ、それに納得していない。
「弟に勝手に入れられた。押し込まれたんだ。」

決してそういうわけではないことはわかっているが、女性はそのように考えてしまっている。

「戦後の何もない世の中を、兄弟で生き抜いてきた。弟は一番下で、戦後の日本を知らない。どれだけのものだったかわからないの。」

そういって最後に「悔しい。。。」と涙を流す。




この方の苦悩が想像できますか?




私にはわからない。
戦後の日本を、焼け野原になったこの国を見ていない。
何を見て、何を聞いて、何を感じてきたか。
教科書で写真や絵は見たが、それだって、この方が見たものではない。

わかるわけないんだ。


これが2つ目の罠。

わかるわけないことを、わかれと言われる。
やってみるけど、やっぱりわからなくて、そして怒られる。
できないことを通して、「気づき」を求められても、できない。
「想像」から「気づき」にたどり着く事はできない。

余談
私が「想像」するかわりにやることは「対話」だ。
「相手は自分と違う」「相手のことはわからない」ことを前提に対話をする。

「私にはあなたの見てきた景色も、感じてきた空気もわからない。だから教えて欲しい、あなたの言葉はわかるから。教えて欲しい。何を今言いたいのか、何を伝えたいのか。受け取る事はできる。あなたのことを理解できなくても、あなたの言葉を聴く事は私にはできる。教えてください、あなたのことを。」

想像しようとしたってできるわけない、理解もできない。だけど、違うことはわかるし、言葉を受け取る事はできる。絶対に終わることのない「対話」をしよう。


「経験」

最後の罠が最もヤラシイ罠。
若手と若手を教える人。その両面からして、この「経験」というやつはヤラシイ。

まず教える側がいう「経験」のヤラシさとは、「教えることの放棄」だ。

「今はまだわからないだろうけど、経験していけばわかるから」

よく言いませんか?
これすごく言ってしまいやすいと思う。
私も、油断すると「経験やな」とか言ってしまう。
言って反省してしまう。

教える側として、「経験」っていう言葉を使うと「なんか良い事言った感じがする」ことないですか?
「キャリアを積んだから見えてくるもの」「経験がもたらす大人の風格」みたいな。「経験がものをいう」的な。

「経験でしか教えられないことがある。」

は、間違いだ。
本当はそうじゃない。
言葉隠れてしまっている。

(今ある技術を、どう学んで、どう体得したのかわからない。気がついたらできるようになっていたから、どうやって教えたらいいかわからない。俺も教えられていないから、教えることができない。だから)経験でしか教えられないことがある。」

これが正しい。

私にもある。
どうやって体得したかわからない技術。
残念なことに、それを教える事はできない。
実は「事例1」をなかなか他に教えることができなかったのは、自分でもどうやったかわからなかったからだ。
勝手に目が膝に注意がいき、行動を追っていた。
何を意識して、何を考えていたのか。
結果論は話せるけど、技術を教えられなかった。

これまでそれを「経験」と言ってしまっていた。

教える側にとって、「経験」という言葉は「私には教えられるだけの論理がありません」と言ってることになる。
それは教える側の怠慢と言える。

「経験とは、教えることができない感性などではなく、教えるだけの論理が確立していないフワフワした技術のこと」

教えられる側、つまり新人、若手にとっても「経験」はヤラシイ罠。

「経験」に必要なファクターは2つあり、1つ目は「時間」だ。

何かの経験を積もうと思うと、時間をかけないといけない。
が、時間だけではいけない。

日本人などのアジア人の成長は24,5歳がピークだと言われている。(諸説あり)
それ以降はどんどん衰えていくらしい。

本当にそうか?

私の同い年の有名人に錦織圭がいる。
言わずと知れた日本最高のプロテニスプレイヤーだ。

彼と言えば、2014年の全米オープン準優勝が輝かしい功績として記憶に新しい。
日本人初のグランドスラム制覇に手が届くか。
私も深夜にテレビで彼を応援していた。

そのときの彼の年齢は24歳。

成長のピークと言われている年齢だ。

その後の彼はというと、次こそ優勝だ!と期待されるも、決勝に進むこともできずにいる。

24歳が彼の絶頂期だった。

と言えるのだろうか。
功績だけ言えば、そういうことになる。

しかし、その後の彼を見ていたらわかるが、プレーのレベルはその後もどんどん上がっていった。
2014年全米オープンでの準決勝で見せたジョコヴィッチ戦の錦織は確かに凄まじかったが、以降もそれに並ぶ、いやそれ以上のプレーは見せている。

テニスグランドスラムは年間で4回ある。
全豪オープン、全仏オープン、全英オープン(ウインブルドン)、全米オープン。
テニスにおいて最も権威あるこの4つの大会だが、その規模もすごい。
128名の出場者によるトーナメント。
3set先取の5setマッチ(男子)(ほとんどの大会では2set先取の3setマッチ)。
優勝するためには中1日で15日間、7試合を勝たなくてはならない。
実力伯仲の相手との戦いは、2時間3時間は当たり前、5時間を超えることも、10時間に達することさえある。

はっきり言って、勝ち切るには運の要素もいる。

運も実力のうちだと言われれば、その通りだと私も思う。
本当に運ならば、グランドスラム歴代最多20勝のロジャー・フェデラーのことを説明できない。

少しテニスの話に寄りすぎました。

話を戻して、錦織圭のピークについて。

戦績の最高は2014年の全米オープン準優勝で間違いないが、その後もオリンピック銅メダルを筆頭に数々の功績をあげ、最高のプレーを更新している。

あえていうと、やはり2014年が錦織圭の一種のピークではあったと思う。

しかし、あくまでそれは「身体面」においての話し。

アジア人のピーク24,5歳というのは、あくまで身体面の話しだ。

テニスはもちろん、あらゆるスポーツにおいて、身体能力だけで勝てるスポーツはない、そこには技術や戦略が必ず必要になる。

これが「経験」における2つ目のファクターであり、3つ目の罠。
「思考」だ。

経験は「時間」と「思考」で成り立つ。

体を鍛えて、身体面の強化を図るが、やがてピークを迎える。それは個体差はあるが、24,5歳ぐらい。

では、それ以降はいくら時間がたっても無駄なのか?
違う。

思考というファクターが残っている。

思考に衰えはない。

学べば学ぶだけ、チカラがつく。
学びを得るまでのスピードには影りがみえたとしても、学び続ける限り思考は力づく。

「経験」とは単なる時間の流れではなく、思考の積み重ねでもあるのだ。

思考がなければ、「経験」は24,5歳を超えれば「老化」に変わる。
思考があれば、「経験」は「成長」に変わる。

教えられる側は、「経験」を積もうと思ったとき、それを「時間」の流れだけにしてはいけない。それでは老化だ。
思考すること。なぜだと、これはどういうことなんだと、考え続けてこその、経験、成長。

3つ目の罠。

教える側の「経験」は教えられないだけの怠慢。
教えられる側の経験は「時間」に「思考」があるかないかで「老化」か「成長」かが分かれる。


気づきの正体

気づきとはなんぞやということを考える際の3つの罠「観察力」「想像力」「経験」。これらにハマると気づきを体得できない。

気づきを体得するために、その正体を知る必要がある。

ここまで書いておいてなんですが、私もまだ完全に落とし込めているわけではない。
ただ、一つの道筋が見えてきた。

あくまで、その程度のことだと思って読んで欲しい。


気づきの正体。


それは、「教養」だと私は考える。

教養(きょうよう)とは個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。(Wikipediaより)

また大雑把な言葉にしてしまい申し訳ないが、そもそも「気づき」が大雑把なので、やはりその正体も大雑把なものだろうと思う。

されども、気づきを学べと言われても何を学べば良いかよくわからないが、教養なら少し説明ができる。

教養とは、つまりは『なんでも』ということ。

私は大学1年生のとき、大学内の交流会で学部長と話した。
そのとき、ある学生が出身地について話をしていたのだが、その土地の読みが、学生の読みと学部長の読みとで違っていたのだ。

学生は自分の地元だから読みは間違い無いという自信がある。
学部長は学部長で人生のキャリアが違う。

どっちが正しいんだ?ってなっているときに私が間に入って、
「それは確か、平成の大合併のときに読み方を変えたはずです。もともとは学部長の読みでしたが、少し特殊な読みなので、平成の大合併を機に、全国の誰でも読める読みにしたはずです。」
と説明した。

すると学生は目が点になり、学部長は納得した顔で「君は学(がく)があるね」と言っていた。

別に大した知識では無い。

親の仕事の関係で、土地の名前やらに触れる機会があって、それでたまたま知っていただけ。

それを学部長はえらく褒めてくれたが、それほどのことではない。
「平成の大合併」も中学や高校の授業で出てきてたぐらいだし。

教養とは、こういったことの積み重ね。
いや、重ねるというより、広がりの方がイメージに近い。

いろんなことを知っている。
「なんでも」知っている。
なんでもとは、神羅万象という意味ではなく、手当たり次第という感じ。

この教養が気づきの正体だと思うわけだ。

平成の大合併を知っているかどうかという話ではありませんよ。

とりあえずなんでもいいから、たまたま知っているかどうか、そんなところ。

もちろんこれを運とか、経験とか、いうつもりはない。

教養と考えれば気づきより説明がしやすいし、何より学べる。

教養とはなんでもをさすので、なんでもいいから学べばそれは教養となる。

「気づく」ときには何かしらの知識や行動から得ているはず。それは様々な内容で、分類も多岐にわたるため、言葉にするのが難しいが、言うなれば教養。

教養、ときにそれは知識だし行動だし。
学問から学べることもあるし、芸術や文化からもある。

気づき、言うなれば教養。
教養、言うなればあらゆる学び。


なぜ、気づきを経験と言われるかと言えば、時間が経過すれば、教養は増える方向に働く。そこに思考は必要だが、思考さえあれば、経験の中から教養がうまれるため、気づきに繋がる。

あらゆる教養が気づきには必要だ。
気づきに終わりがないのは、教養にも終わりがないから。
果てしないものになる。
しかし、学べるものだとわかれば、体得していきやすくなるはず。

教養を得ていこう。


さいごに

教養はなんでもいいわけだけども、個人的なおすすめを。
自粛期間に映画やら本やらをいくつか読んだが、そういった芸術やエンタメの領域も教養になるし、気づきの元になる。
何を隠そう、「気づきの正体ってこれか?」って思うようになった気づきも、そこから得たから。
女性が膝が痛そうって気づきも、実は映画から得た教養。

映画、本、マンガ、音楽など、エンタメから入るのはどうでしょう?


やっぱ文章書くのって難しい。

「気づきの正体」にもしあなたも気づいていたら、コメントで教えてください。

最後までありがとうございました!

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