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「働く」の時間論⑩ 目的を超越して楽しむということ

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仕事で流れる時間は、人が生きる本来の時間からかけ離れていっている。それでは仕事の時間を自分が生きる「自分のため」の時間に戻すためにはどうすればいいだろうか。

まず一つめに、新潮新書の『目的への抵抗』を参考にしながら、ビジネスの「目的」からはみ出て楽しむということの可能性について考えていきたい。

『目的への抵抗』は主に政治を中心として「目的」に支配される社会について疑問を呈している。コロナ禍において感染拡大の防止を目的として「不要不急の行為について自粛が要請」されたが(改めて書くと変な日本語だなあ)、その目的のための手段は果たして民主主義的に無抵抗に受け入れられるべきものだったのか。さらに言うと、「不要不急」がすんなりと受け入れられたのは目的からはみ出るものが認められない社会になりつつあったからではないか、と書いている。

作者の國分功一郎は、前著の『暇と退屈の倫理学』では大量生産・大量消費の社会で終わりのない記号的な消費ゲームを要求し続ける現代に問題を投げかけている。ブランドの商品や次々と出る新しいモデルのツールは、それ自体を「持っている」という記号を求めて購入するが、記号をいくら持っても満たされることはなく、自分たちに本当の楽しみや豊かさを与えてはいない。贅沢とは記号ではなく物そのものを受け取って浪費することにあると言っている。
『目的への抵抗』では、改めて上記の内容を振り返りながら、「贅沢」の本質とは、目的からの逸脱ではないか、と考察している。
例えば、食の目的を生命を保持するための栄養摂取だとしてみよう。すると食べるものは『シン・エヴァンゲリオン』でシンジがむせながら食べていたレーションでも別にいい。しかし人はせっかくなら美味しいものを食べたい。新鮮な採れたてのトマトに塩をふりかぶりつくのは、栄養摂取という観点からすると全く必要がない行為であるが、これぞ食の醍醐味であり人が生を楽しめる瞬間である。これが目的から逸脱した「贅沢」である。
しかし、現在ではこの目的から逸脱するということは認められなくなってきているという。

本では政治、特に民主主義について書かれているが、「働く」時間においても
これまでのnoteでも書いてきたように同様のことが起きている。経済成長という目的のために業務の効率化が要求され、「意味のない時間」が削られ、より濃度の高い目的性のある業務が求められている。削減される業務にこれまでかけていた時間は、その業務をしていた人にとって「自分のために」働いていた時間であり、全く無駄ではない。しかし逆に果てしない成長が求められるビジネスの現場では本来の「自分のために」働くということが隠され「社会のため」に働くことが求められている。

ではどうすれば「自分のため」の時間を取り戻すことができるのか。本に戻ると、全てが目的に還元される社会で異なる世界を生きるためには目的を超えて「自由」であることと書いてある。
目的を超えるとはどういう状態なのか。本では学校の文化祭で例えている。
学校の文化祭の出し物について話し合う場面があったとする。そのときに最初にあるのは「文化祭に参加する」という目的である。話し合いではどんな出し物がいいのか、演劇をするのか屋台を出すのかで盛り上がり、目的を忘れて話し合いに夢中になっている。
この目的を目指しつつも、いつの間にか目的を忘れて楽しんでいる状態を、目的を超えた状態といい、ハンナ・アーレントから引用して「自由」と呼んでいる。

「働く」時間をいかに「自分のために」生き、本来の人の時間に戻すのか。一つには目的を目指しながら、それを忘れるほどに過程を楽しむことで「自由」を取り戻すことが必要なのではないか。

一つ例を挙げておこう。
自分は以前、会社の上司から『博報堂のすごい打ち合わせ』という本を渡された。上司は「この本に書いてあるような、雑談で盛り上がる中でクリエイティブなことを生み出したいんだ」を語っていた。自分は転職していろんな会社の会議や研修に参加したが、どれも話し合うべきことに終始し、とてもつまらないものばかりだった。なかにはパワハラまがいの発言を聞いてうんざりしていたこともある。
雑談で盛り上がり、目的を忘れて話し合える会議は今こそ必要なのでないだろうか。

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