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【建築家になんかなれるもんか】:異形とフェチと対話について

前の記事で、共感性が支配するオートマティズム批判のようなことを書いた。書くということは、書かされるということと峻別するべきであって、それは言い換えれば、創作をするものにとってのべき論の不在を咎めたものである。それを投稿してからというもの、数人の知人からは「面白かった」「よく言った」「なんか始まった」という称賛とも奇異の目ともとれる通知をもらい、また一方で全体としては「やっちまったな」「何言ってんだこいつ」「終わったな」という侮蔑のような視線を押して知るべしと感じている。まあ、よい。だって、noteに書くことは、誤解を回避するためにフレッシュな私(=private)の部分を露出するという実験なので。

と、それはともかく、このように創作物において、その"人間"が強く表出しているとき、それは単なる好みの問題なのか、それとも何らかの意味をもつものなのかは重要である。"人間"というと抽象的に過ぎるので、作家性、さらにやや暴力的だが分かりやすく異常性と言い換えてもよい。僕は特にそういう個人の意地のような変な部分を見つけると胸を打たれやすいらしく、そういうときはだいたい「おいおいおい」と困惑し「うっわー何これやっべー」と驚歎し、しまいには「いいなこれ。」となってしまう節がある。それは、つまり、ある種のショックなのだが、ときに身を犠牲にした何かを感得せらることもしばしばで、半ば妄信的に「人類にとってこれぞ価値あることなんだ」という狂気を内包しているのがミソだ。
その正体は、強い選択の意志とエネルギーの凝集体のようなものである。そして、その価値は多様性の一言や、好き嫌いなどと一蹴して片づけることはできない。建築家・毛綱毅曠(読みは、もづなきこう。難しすぎるだろ)いわく、「〈異〉は〈正〉に対する異議申し立てなどとしたり顔で記した」わけで、その異形が伝えんとすることは、他者と異なることが許容されるとかされないとかの話を越えている。荒川修作の『養老天命反転住宅』は尋常ならざる建物だが、人類みなの健康を願って生み出された博愛精神の賜物であって、あの奇怪な空間を訪れたとき、あまりにも見事に刺激された不摂生な僕の身体は、その後の数日間シャッキリしたのだ。本当に。

ところで、こうした作品に見られる強い個人的理想を表す某は、じつはフェチズムとの境目が曖昧なものである。「〇〇であるべき」と「○○が好き」は意外に渾然としている。感銘を受けたものを自己の内に取り込むとき、「好き」と「べき」が分かちがたく結ばれてしまうのはよくあることで(「好き」だけど「べきでない」とか、「嫌い」だけど「べき」もあるからややこしいが)、たとえば講師の仕事で教え子の作品を講評する折には、「私はこういうのが好きなんです!!」みたいなプレゼンをするのもいて、「いや、それは知らないけど…」とか内心ツッコミを入れつつ、しかしよくよく聞いてみると、独特の思考の萌芽が見られることもあり、丁寧に水をやれば十分に社会性をもつ可能性もある。そうした機会には、自身をかえりみて、一人の人間として、創作の内にひそむ好き嫌いの重要性を考えざるをえない。つまり、上沼恵美子のM-1 2018審査をひどく妥当なものと考えている僕は、散々文句を言った武智(@スーパーマラドーナ)と久保田(@とろサーモン)の気持ちに十分すぎるほどの理解を示しつつ、その残酷さを積極的に肯定する。(問題はあれが批評の場であったことであり、その言葉である。他者へも自己へも批評というのはドライでクールに遂行されるべきで、当然そこに表される言葉にもフェチズム的表現を持ち込まぬよう努力することは大事なので、上沼恵美子が感極まって「好き!好き!」と連呼したことによって、審査基準そのものが問題に思われてしまったことは事実である。要するに、フェチを発信するときには文脈化の洗練(ソフィストケーション)を受けねばならないので、もしこのへんのことがイマイチ分からないときは、村上隆などを参照されればよい。)

そういえば、大学三年生の頃に出された設計課題で、かの大野秀敏から「今度インドのハイデラバード(がちの荒野)に大学を構想するから、その国際会議場を設計しなさい」との課題が出されたのを思い出す。当然誰一人として敷地調査に行けるわけはなく、学生たちはみな狼狽した。が、彼はそれを見抜いた上で「君達の設計物はインドっぽくないよねぇ」と弾劾し、「現地調査に行けなくたって、インドの音楽を聴けば良いだろ!」と畳み掛けることで学生諸子の目から鱗を飛び出させたのだった。客観的に考えればインドっぽいって何だ?となるかもしれないが、まあよい。彼は経験主義者である。そして、僕はこのとき『スラムドッグ$ミリオネア』にて音楽製作総指揮をしたA・R・ラフマーンにはまっていたので、内心ガッツポーズであった。シタールとオーケストラ、4拍子の電子音で構成された楽曲は、グローバリズムとローカリズムの衝突の現代的帰結とみえ、ひとえに素晴らしい。)

この事件によって、僕の中で雑多な興味を、それが建築の話に収束するかは怪しいギリギリのラインであっても維持することの正しさは証明されたわけである。
そしてその数年後には、とある設計案件に際して、C・ノーランの『インター・ステラ―』の音楽を製作したハンス・ジマーにはまって聴きまくり、あまつさえクライアントにも勧めて聴いてもらうという若干のKYぶりを発揮したが、そのクライアントはそもそも音楽家であり、さらに心優しい方だったので面白がってくれ(多分)、そして、その話と1/20模型の一発でおおかたの全体像は決まったのだった。

他分野を参照するというのは、創作において古代からの正当な手続きである。そもそも思想や芸術、科学は蜜月の関係を築いてきたのだ。西洋史を概観すれば、バロックやゴシックなどの“様式”で同時代性を語ってきたわけで、その分類が良いか悪いかは置いといても、シンクロニシティーで共鳴し合って高め合うなどの現象は、当たり前のことである。

問題なのは、他者との対話ということにあたって徹底的に貫き通す勇気と意地とエネルギーがあるかどうかだ。正直これこそ最大の試練というか、やってみるとかなり神経をすり減らすことが分かるので、こいつのせいで多くの人がコミュニケーション不全に陥っているのではないかと疑っているのだが、このことについては建築家・安藤忠雄が良いことを言っているので引用したい。

「互いの意思のぶつかり合いが必然となる故に、絶えず他者との緊張関係を余儀なくされるコラボレーションは、いってみれば闘いです。そこでは、よりよいものを互いに求め、ひたすら対話を積み重ねていかねばなりませんから、非常に疲れるし、時間もかかる。しかし、このとき生じる摩擦が大きければ大きいほど、積み重なる対話が多ければ多いほど、その結果生まれる作品には奥深い魅力が生まれてくるのです。そのときの緊張感が、作品にある種の強さを与えるのです。」

何が良いって、これを言っている安藤の内側にマグマのように湧き出る不屈の魂を感じるところだ。恐らく現場はしっちゃかめっちゃか色んな言葉が散らかっているに違いない。そこには好きも嫌いも、あっちもこっちも混在して、生身の人間同士の衝突があるはずだ。
世の中ではよく諦めの悪いヤツは嫌われるとか言うけれど、そんな異形同士の対話をダメだと言われるような状況では、建築家になんかなれるもんか。

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