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ライターになんてならなければよかった

文章を書くのは楽しいけれど、楽しさばかりではない。それはどの仕事にも言える話で、文章以外の道を選んだとしても、同じ悩みを抱えていたはずだ。文章を楽しむために、いい文章が書きたい。それは誰にとってのいい文章なのだろうか。自分にとって?それとも誰かにとって?その答えがずっとわからない。

文章を書く。文章が書けない。どれだけ頭を捻っても、原稿がまったく進まない。気分転換に夜風を浴びる。それでも文章はやっぱり書けない。そんなときに、素晴らしい才能を持った文章家に出会ってしまう。自分よりもいい文章を書く人はこの世にごまんといる。そんな人を見るたびに、才能がなさすぎると嘆いているし、もうやめようかなと考えた夜もなんどもあった。

文章に挑戦したきっかけは、文章がお金になると知ったからだ。本を書いて生計を立てている人がいるのは知っていたが、Webライティングで生計を立てている人は知らなかった。文章を書いて生活をしている人がいる。好きな文章を書いて生活ができるなんて最高すぎる。目の前にあるキラキラしている世界に、自分も飛び込みたい。期待に胸を震わせて、文章の世界に飛び込んだ。

でも、実際に待っていたのは、誰が書いてもいいような文章ばかりを書く毎日で、そこには自分の存在なんて必要なかった。自分を知ってもらうために書いていくと思っていたのに、自分を出せずに悶々とする日々。誰が書いてもいいような文章を書いて、なにが身についているのだろうか。文章を書くのが誰でもいいのであれば、僕じゃなくていいはずだ。そんな疑問を抱えながらずっと目の前の原稿を書いてきた。

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ちっとも楽しくないし、もう文章を書きたくない。

なにがきっかけはもう忘れた。でも、あの日、確かにずっと張り詰めていた糸が、たしかに切れた。文章で生活はできている。でも、なにかが違う。そのなにかはわからない。文章で生活をすることは難しいと理解しているし、自分みたいな生き方に憧れている人だっている。

1年前にFacebookに近況報告を投稿したときに、「リョウタくんの生き方すごく憧れます」というコメントが来た。周りから見ればキラキラしているのかもしれない。でも実際は、キラキラなんかしていないし、毎日弱音ばかり吐き続けている。他人から見れば、もしかしたらこの悩みは贅沢な悩みかもしれない。でも、どんな生き方をしても悩みは尽きないもので、ハリウッド俳優だって悩みを抱えているものだ。悩みを解消するために、日々模索しながら誰もが生きている。自分がどうしたいのかを、考えれば考えるほどその答えがわからなくなる。本当にこのままでいいのだろうか。わからない。でも、文章を書き続けなければ、生活は成り立たない。

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キラキラした世界だと思って、飛び込んだ世界は、まったくキラキラしていなかった。むしろ泥臭さしかないし、そこに価値を見いだせるかがすべてだった。僕が生きているこの世界がキラキラした世界だと思ったのならそれは、見せ方が悪かったに違いない。「そんなに苦しいならもうやめちゃいなよ」という自分と、「でも生活はできてるじゃん、それ以上なにを望むって言うんだい」という自分がせめぎあう。好きだから始めた文章で、こんなにうまくいかないなんて。文章を仕事にする前は想像もしていなかっただろう。こんなはずじゃないって何度も思ったし、やめてやろうと何度も思った。

文章を仕事にしてわかったことがある。好きなように文章を書くは、ただのエゴでしかなくて、世間には何の役にも立たない、そんな文章は誰にも望まれていないし、書きたいのであれば日記にでも書いていればいい。誰かを救ったり、楽しませたり、感情を動かさなければ、仕事として文章を書く意味なんてない。文章で救われてきた自負がある。過去に自分を救った文章で、僕も誰かを救いたい。でも、誰かを救うなんて、きっと傲慢な考えなんだろう。もしかすると、相手は救いを求めていないかもしれない。そこに無理矢理手を差し伸べるなんてただの傲慢でしかない。

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好きな文章を書くなんて、所詮は幻想だった。ずっと好きじゃない文章をたくさん書くことで生活を成り立たせてきた。楽しみを見出すのは自分自身で、その楽しさを見つけられないのはぜんぶ自分が悪い。そんなごく当たり前の言葉は、苦しみの渦中ではただの綺麗事でしかない。誰もが楽しさを追いかけていて、楽しさが見つからないと嘆く。もしかすると、この悩みだって、他人から見れば、贅沢な悩みなのかもしれない。

文章を書きたくないと思った。もうやめようとも思った。でも、やめなかったから今の自分がある。あいかわらず自分じゃなくてもいい文章も書いている。でも、誰が書いてもいい文章に救われている人だっている。自分が書いた文章で、誰かが救われているのであれば、それは文章か冥利に尽きるのだろう。

文章を書きたくないと思う日はこれから先もきっとやってくる。それでも文章を書き続けたい。僕は文章を書くのも読むのも好きだ。そして、たくさんの文章に救われてきた。たとえキラキラした世界じゃなかったとしても、文章を書き続ける。僕には文章しかない。これは後ろ向きではなく、前向きな諦めで、文章を書き続けることで、自分の存在意義を証明し続けるって意思表明でもある。

苦しいときは雨のように泣いてやればいい。でも、雨は必ず止む。そして、希望の虹がかかる。なんて明日の自分に期待をするのはもう止めよう。たとえ土砂降りだったとしても、今日の自分のままで、雨のように泣きながら這いつくばってでも前に進むしかない。明日の自分に任せるな、今日の自分にできることがなんなのか考えて、そいつを実行に移そう。いつの日か花咲く自分を信じて、できることを最大限にやり続ける。それしか活路はない。

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たとえ文章が書けなかったとしても、歯を食いしばって文章を書き続ける。文章で生きていくためには、文章を書き続けるしかない。そんなわかりきった事実を、受け入れながら、ときに憂に思いながら、今日も明日も文章を書き続けよう。

こちら後日談です。


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