相手に求められない優しさはただのエゴである
相手のためになると思ったことが実は優しさではなかったり、逆に傷付けたと思ったことが感謝されてしまったりする。相手の感情の基準は相手によって変わるため、適宜コミュニケーションを図って、少しずつ知っていくしかない。たとえどんな目に遭おうとその人を嫌いにならない人と、相手が喜ぶことをしたとしても、その人を嫌いになる人がいるらしい。
知り合いにどれだけアドバイスをされても変わらない人がいた。最初は僕もその人の話を親身に聞いて、共感したり、思った言葉を伝えたりしたのだけれど、何も響いていないと思ったため、興味すら湧かなくなった。それでもずっとその人の話を聞き続ける人がいて、変わらない相手の心配を行動で起こし続ける優しさに畏怖してしまったのだ。
落ちるときはとことんまで落ちていいと思っているけれど、そのあとは新しい自分を作っていく必要がある。どれだけ逃げたとしても、絶望は違う顔をして襲ってくる。逃げた分だけ大きなツケが必ず返ってくるのがセオリーのため、どうにもできない状態になる前に向き合わなければならない。
最初は力になりたいと思っていたけれど、時間が経つにつれて、だんだんめんどくさいが勝つようになってきた。時間は有限である。無意味に時間を消費するぐらいならば、家で読書をしたり、映画を観たりする時間の方がよっぽど有意義だ。
僕だけでなく、たくさんの人がその人の話を聞いていた。話を聞いてもらえるだけでもありがたいと思わないのだろうかと疑問を抱く。僕たちはきっと共感し合えない。ずっと逃げ続けている人を見て、すべて自分で選んでいるという結論が出た。自ら不幸を選ぶのであれば、それが相手にとっての幸せなのだろう。
もしその仮説が正しいのであれば、もう自分の言葉は相手に響かないと対話を諦めてしまった。自分の世界に塞ぎ込んで、たくさんの人の優しさを無碍にする。失礼な人だと思ってしまった。理解できない。もう生きている世界が違うのだ。自分から傷つく方向を選んでいるのだから、ずっと悲劇の主人公を演じていればいいと思う。
だからといって、不幸になってほしいわけでなく、その人の幸福を祈っているの事実だ。出来ることが何もない正解なのかもしれないし、介入するから見守るに軌道修正したに過ぎない。「僕の言葉はその人に響かない」は結果論で、時間を費やしても意味がないと判断した。
どれだけ不義理を起こしても嫌われない人がいるのかもしれない。でも、相手の優しさに甘えているだけでは成長はないし、むしろ退化だと捉えられる。変わりたいと願うなら相手が優しさを施してくれている間に変わらなければならない。大切なものは失ってから、その大切さに気づくものだ。最悪の事態を招いてしまわないようにならないことを祈ることしか僕にはできない。
自分が与えたと思っていた優しさは相手からは求められていないものだった。それはただのエゴである。他人に与える優しさは、時に自分を殺す。自己犠牲の上で成り立つ優しさは、誰よりも大切にすべき自分自身を傷つけている。人間の感情は非常に厄介で、気分によって左右されるものである。相手に使う優しさは相手のためになっているだろうか。見極めは難しいが、自己犠牲の上に成り立つ優しさは自分を傷つけているという事実を頭に入れておきたい。すぐに生き方は変えられないものだ。少しずつでいい。自分を大切にする人生を歩めるよう努力を積み重ねていく。
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