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試着室で思い出せなくなったら、もう本気の恋じゃないんだと思う

尾形真理子さんの「試着室で思い出したら、本気の恋だと思う」という言葉を試着室でふと思い出した。試着室の中で、誰も思い出せなくなった私は、もう恋愛をしていないのかもしれない。恋人と一緒にいるのは、そこに愛があるからではなく、別れの決め手がなかっただけに過ぎない。感情論だけの皆無に等しいセンスに飽き飽きした私は、明日あなたとさよならをする。

別れの決め手を探し続け、怠惰な気持ちで恋人と一緒にいる私は、誰がどう見ても残酷な女だ。たしかに少し前までは、あなたを思い出していた。そこに嘘はない。あの頃は本気の恋だった。でも、もうあなたに本気で恋をしている私はもういないと気づいた。それが別れの決め手だった。

尾形真理子さんの前向きな言葉が、まさか別れを決心する覚悟の言葉になっただなんて、まさか彼女も思ってもいないだろう。当の私も試着室で、別れを決心するなんて思っていなかった。でも、別れを決心する決め手になったのは事実だ。前向きな言葉が必ずしも、前向きに捉えられるとは限らないとそのとき私は思い知った。言葉の受け取り方は、いつだって他人に委ねられる。

誰かに見せたいわけでもない衣服を試着したあとに、店員さんに「これもらいます」と声を掛ける。「すごく似合います」なんて言われても、お世辞にしか聞こえないし、セールストークが上手くいってよかったねとしか思えない。なんていやな女なんだろうか。お腹の中から出てくる醜い感情が、実に腹立たしい。負の感情が相手に伝わらないうちに、さっさとこの店舗を後にしたいし、店員さんのセールストークなんて、ちっとも聞きたくない。

愛がわからなくなった。それと同時に恋もわからなくなった。恋人にお洒落をしているじぶんを見せたいと思わない。そして、もうすぐお別れをする恋人のじぶんの可愛さのあまり誰かを傷つけることを厭わないその薄情な感情を、時に羨ましく思う。私も感情論で生きていければ、楽なんだろうけれど、いずれ嫌われてしまう事実を知っているから、ほんとうのじぶんを曝け出せずにいる。彼の前でもじぶんを偽り続けた。そして、そんなじぶんに嫌気が差して、彼との別れを決断した。

ずっと一緒だと思っていた愛は、いとも簡単に手放せてしまうものだ。愛を手放すのはこっちだけれど、心のどこかに被害者意識を棲まわせているのは、一体何故なんだろうね。誰かを愛すことになんの意味もないと知っているのに、どうせまた懲りずに誰かを愛してしまうのだろう。愛に囚われ、愛に踊らされ続けるこの人生に、誰かがいつか綺麗な色を付けてくれるのだろうか。

学びのない恋愛。学べないのか、学ばないのかは、じぶんにもわからない。でも、学びたい気持ちはあるし、永遠の愛がどこかにあると信じたいじぶんもいる。そして、人は人を愛さずにはいられないという事実は、この人生の中でわかったことの1つでもある。

愛に傷つき、愛に救われ、愛なしじゃ、生きられなくなってしまった滑稽な人間たち。その人間の中に、私も漏れず含まれている。「愛がなくても生きていけるよ」と誰かが言っていたけれど、愛を受けずに、生きている人間なんてどこにもいない。誰もが愛の恩恵を、少なからず受けている。そんな事実に気づけない名も知らぬどこかの誰かのくだらない感性に絶望してしまう。

愛について語る人を見るたびに、その薄っぺらさに適当に相槌を打っては、共感しているふりをして、その場を凌ぎ切る。愛は言葉では表せない。言葉で表せる愛もあるけれど、言葉なんていくらでも誤魔化せてしまう。愛は行動がなきゃ表現できないし、愛を証明するためには、かなりの時間がかかる。

それに愛が証明できたかすらも、保証ができない。愛の一般論だかなんだかわからないけれど、わかった風な口を聞いてしまうその風情にくだらなさを感じる。そして、この浅ましい考えにしか至らない私自身には嫌気を通り越して、呆れさえしている。

手と手のしわを合わせて幸せ。手を合わせるだけで、手に入る幸せ。そんなに簡単に幸せは手に入らないよと思っているじぶんと、幸せは簡単に手に入るけれど、手に入れるにはかなりの労力を要すると思っているじぶんがいる。幸せのハードルを上げては絶望して、幸せのハードルを下げては、程度の低い幸せに安堵してしまう。今回の恋愛は勝手にハードルを上げて、自爆してしまった。

ため息をつくと逃げる幸せ。ため息ごときで、逃げる幸せなんて必要なのだろうか。その程度の幸せはすぐに壊れてしまうから、必要ないと意固地になる。幸せになりたい。幸せになれない。またしても私は、いま目の前にある幸せを壊そうとしている。ねえ、幸せって一体なんなの?

店員さんのありがたいお話からやっと逃れられた私はお店を後にし、駅へと足を運ぶ。愛や恋の類について歌われた歌を、今日もシンガーソングライターが歌っている。賽銭箱みたいなものを設置しているけれど、お金は全然入っていない。彼らの歌の価値は、お金で図ることができるけれど、賽銭箱の中はほとんど空っぽに等しい。大半の人間が見向きもせず、彼らは街の中で、空気として溶け込んでいる。

彼らが歌うその歌は、誰に向けられた歌なんだろうか。大抵が自己満足の自己承認欲求を満たすための歌でしかない。そんな歌はお遊戯会で発表しておけばいいのに、彼らはあいも変わらず駅前の高架下で、めげることなく愛を歌う。

「100万人のために唄われたラブソングに、僕はカンタンに思いを重ねたりはしない」と歌ったポルノグラフィティには、拍手をしてしまうほど共感してしまった。たった1人のために歌われたラブソングならまだしも、不特定多数に向けられた愛など愛ではない。承認欲求のために綴られた偽物の愛と呼んでしまっていい。愛は確固たるもので、2人の間だけで育まれればそれでいいのだ。インスタやTwitterなどで誰かに見せつけるものでもないし、2人だけの秘密を共有し続けるのが、愛の行く末だと昔から相場でそう決まっている。

もし駅前で歌う彼らの歌が、たった1人のために歌われた歌ならば、拍手が起こるはずだけれど、誰も見向きもしないからきっと不特定多数のために歌われたラブソングなんだろう。誰も見向きもしない場所で、愛や恋だとかその類の歌を歌うその姿は、滑稽なのか。それともかっこいいのかは私にはわからない。でも、必死に誰かもわからない人に届けようとしているその気持ちだけはわかる。それが報われるかどうかは私には関係ないし、興味すらも抱けない。

最近のラブソングは、どれも同じように聞こえるような気がする。なぜ同じに聞こえるのかを考えてみると、ある結論が出た。それはみんなが求めている愛は形が違えど、どれも同じものだということだ。愛に違う形はない。どの愛も同じ愛で、愛のつづられかたが違うだけの話。だから、どれも同じように聞こえるのだという事実に気づくのに、30年もかかってしまった。

明日、私は最愛であった恋人にさよならを告げる。ねえ、誰か教えてよ。2人が一緒に過ごした時間にはなにかの意味があったのかい?愛を誓い合ったあの瞬間はきっと嘘じゃなかったでしょう?あの頃2人の間にはたしかに愛はあったよ。築き上げてきた愛を壊したのは事実だけれど、2人が愛し合ったあの時間は嘘ではなかったはず。もし嘘だと言うならば、仮初めの関係性だったってことだよ。そんなの嫌だよ。

さよなら、試着室で思い出せなくなった元最愛の人。愛はガラスのように繊細で、すぐに壊れてしまう。そして、1度壊れてしまったものは2度と元には戻らない。誰もが愛を壊さないよう互いに寄り添い合う。でも、私たちの愛はいとも簡単に壊れてしまった。あなたの感情論に寄り添えるほど、私は大人にはなれなかった。30歳を過ぎても、私はまだ大人になりきれていない。

いつになれば、大人になれるのだろうか。そして、大人になれば、愛は永遠だと証明することができたのかな。そんなものは結果論でしかないし、終わってしまったのが事実。試着室で恋人のことを思い出せなくなったのが、私たち2人の結末なのだ。

思い残すことといえば、愛を証明できなかったことぐらいかな。それ以外に後悔はない。私の選択が間違ってないと証明出来るのは、私しかいない。明日の朝、2人の関係にピリオドを打って、私は新しいじぶんに生まれ変わる。そして、愛を教えてくれてありがとう。それだけは彼に感謝している。

「試着室で思い出せなくなったら、もう本気の恋じゃないんだと思う」

時刻は21時を迎える。私はくたくたになった体を、電車へと放り込む。重大な決断を試着室でたった1人で下した。窓から見える月と星、さらには街灯が街を照らしている。

明日、2人から1人に戻る私たちを、きっと祝福してくれているにちがいない。

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