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何をやってもどうせ苦しむのであれば、好きなことで苦しみたい

芽生えた感情がうまく言葉にならないままずっと生きている。綺麗なものを見たときに綺麗以外の言葉が見つからないし、美味しいものを食べたときも美味しい以外の言葉が見つからない。

芽生えた感情をうまく言葉にできる人を羨ましく思う。自身の中には言葉にすらできない感情がたくさんあって、やり場のない感情を抱くたびに、どうしようかと頭を抱えている。懸命に考えた言葉はいつも誰かから借りてきたような言葉で、そこにオリジナル要素は詰まっていない。誰かをあっと驚かすような言葉は出てこず、たとえ言葉が伝わったとしても、記憶に残るのはその一瞬だけだ。

僕は編集者として働いている。ライターさんの情緒な溢れる文章を読むたびに、こういう文章表現ができる人になりたいと思ってしまう。そして、自分の自信が音もなく、あっというまに崩れていく。かつて存在した自信は、ドーナツの穴ぼこみたいな存在になっていた。

映画を観た。小説を読んだ。音楽を聴いた。どんな作品にも心が揺れ動くシーンがある。そんなシーンと出会うたびに、芽生えた感情を感想文にしたいと思っている。無論、嬉しいとか、悲しいとか、切ないとかそんなありきたりな言葉で表現したいわけではない。必死に頭を抱えながら書いては消してを繰り返し、最終的に下書きに残された感想文がいくつもある。誰もが共感や納得するような感想文を書くことができたら、どれほどいいだろうか。

本当はもっといい言葉で書きたいのに、そこに感情が追いついてくれない。喉の奥から出そうな言葉ならあるけれど、それが陽の目を見る日はいつやってくるのだろうか。なんて、どれだけ嘆いても書くことをやめられないから、拙い言葉でずっと文章を書き続けている。そして、書いた文章を読み返して、もっといい表現方法があったはずだと、後悔の渦に飲み込まれる。それの繰り返しをずっと生きていて、どこを見渡しても希望の光は見当たらない。

加えて、誰かとの会話の場合はもっと酷い。複数人との会話だとほとんど離さずにニコニコしているだけの置き物と化す。会話を続かせようと、どんな言葉を話そうかと考えている間に、次へ、そのまた次へと会話が変わっていく。帰り道になってやっと出てきた言葉は、相手に伝えることなく、この世界から葬り去られる。可哀想な言葉たちを目の前にして、僕は何にもできない。それが何よりも悔しくて。悔しくて。

「何をやっても苦しみからは逃れられない」とどこかで聞いた。僕は言葉で表現する仕事をしているのだけれど、楽しい日がほとんどないし、もうやめたいと思う苦しい日ばかりを過ごしている。

ずっと後悔ばかりしているし、納得したことは一度もない。でも、どうせ苦しむのであれば、僕も自分が好きな言葉で苦しみたいと思っている。自分の感情をうまく言葉にするには相当な鍛錬が必要だ。もしかしたら一生納得できる言葉が出てこないかもしれない。それでも言葉が好きだから、自分が納得できるまでは、ずっと書き続けようと思うんだ。

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