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読み手のいい反応は、書き手の生命維持につながっている

noteの通知やコメントをいただくたびに、あたたかい気持ちになる。たまにSNSにコメントつきでシェアしてくださるかたもいるんだけれど、「めちゃくちゃ嬉しいし、書いてよかった!」と感謝の気持ちでいっぱいになる。

だから、通知が来たらシェアするし、コメントに対してのコメントもちゃんと返す。そして、あわよくばじぶんの記事を読んでくださるかたのことを、じぶんのフォロワーさんに知ってもらいたいという気持ちだってある。

正直、文章を読んでもらえただけで、本当に嬉しい。でも、反応をもらえると、喜びが倍増する。だから、僕も読んだ記事が、いい記事だと思った場合は、コメントつきでシェアをするようにしている。

世の中にシェアされた文章は、誰かに読まれるために存在している。誰かに読まれたい気持ちがないのであれば、わざわざシェアする必要がない。誰にも読まれなくてもいいなら、非公開にすればいいし、紙のノートに思いの丈を書き殴っていたほうがいい。

世の中にシェアする時点で、誰かに読まれたいという気持ちは少なからずあるはずだ。その気持ちと向き合わずに逃げてしまうのは、非常にかっこ悪い。

誰にも読まれない文章は、世の中から「価値がない」と判定されたと同義だ。誰もが誰かに読んでもらうために、書く技術や表現方法、語彙力の習得に励む。

書いた文章に無反応だった場合は、悲しい気持ちになる。でも、それは書き手に原因があって、読み手には一切非がない。書き手に「読みたい」や「コメントしたい」と思わせられない文章は、書き手に非がある。

「非がある」と言えば、いささか大げさかもしれないけれど、少なくとも読み手には原因はない。読ませたいなら読んでもらえるような文章を書くべきだし、たくさんの文章を読んで、良いところを真似してみたり、文章関連の本を読むなどして、勉強すべきだ。

そんな僕も誰かに読んでもらうために、書いた文章を世の中にあげつづけている。だから誰かに読んでもらえるだけで、ありがたい。加えて、わざわざコメントをしてくれたり、シェアをしてくれるのは、本当にありがたすぎる。この事実は当たり前のことではないからこそ、ちゃんと目に見えるなにかを返したい。

物書きにとって、反応をいただける行為は、生命の維持につながるからこそ、僕も素敵だと感じた記事をどんどんシェアしていきたい。

とはいえ、「仲がいいからシェアをする」にはいささか疑問がある。僕の中では、「仲がいい=シェアをする」にはつながらない。「いい作品=シェアをする」が自身のシェアの基準だ。物書きである以上は、技術の向上を務める必要がある。身内同士で盛り上がっているだけでは、本物にはなり得ない。

これは、文章を書くことを仕事にしているからこそのこだわりなのかもしれない。文章を書くに関しての一流になりたいし、世の中は実力社会のため、そいつから目を背けてはならない。

だからこそ、シェアの視点を公平にしたいと思っていて、好きな人フィルターを通すのではなく、純粋に作品が好きかどうかが基準にしたい。いいと思ったものはどんどんシェアをするし、いいと思えないものはシェアをしない。

とはいえ、書き手が増えることは、嬉しいことなので、「書き手が好きだから」という理由で、シェアをする場合もある。この辺に関しては、もう少し考える必要があるけれど、細かいことは気にすんなと思っている事実もあるのだ。

読み手のいい反応は、書き手の生命の維持につながっている。だからこそ、実力で見ると、好きな人フィルターで見るを今後はうまく使い分けできたらいいな。

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