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自分が何者であるかよりも、自分がどんな人間なのかを語れよ

「何者かになりたい」

大学生のときに、「何者」の定義もわからないくせに、ずっと悩みながら模索していた。ヒッチハイクをしたり、九州1周の旅に出たり、スキルアップのために本を読んだりもした。でも、どこにいても何者かになるための要素は置いてなかったし、何者にもなれない自分に嫌気が差していた。

「何者かになりたい」

この問題は、おそらく10代から20代の大半の人間が通る道なんだと思う。大半の人間が、将来を見据えるために、自分だけの価値やアイデンティティを見つけるために、日々を模索しながら生きている。

「何者かになる」を追いかけている自分を誇りに思えればいいのかもしれない。中には「何者」というあまりに抽象的なものを追いかけ続ける末に、いつの間にか方向性を見失っていたりもする人も多い。

たしかに自分が何者かを答えられる人は、すごくてかっこいいと思う。僕もそうありたいとずっと思っていたんだけれど、たとえ何者かを言語化できたとしても、それはその人を形づくる1つの要素でしかないと気づいてしまった。

何者であるか。

それは一種の肩書きみたいなものなんだろう。肩書きだけでは、その人のすべてを把握できない。肩書きの中で把握できることは、せいぜい職業だけだ。その人のパーソナルな部分は、肩書きだけではわからないし、予測すらつかない。

そして、必死に模索して見つけた肩書きは、ずっと変わり続ける可能性もある。たとえばいまライターとして、生きているとしても、数年後はどうなっているかはわからない。もしかしたらライターのままかもしれないし、小学校の教師になっているかもしれない。

生きていると肩書きが増えたり、減ったり、変化がなかったりする。でも、肩書きをつけたからといって、それを判断するのは自分ではない。「肩書きは勝手に名乗ってしまえばいい」って言う人もいるけれど、その肩書きがその人にふさわしいかどうかを判断するのは、あくまで他人なのである。

他人から見て、どんな人間であるか。それが「何者かになる」の正体であり、答えなのかもしれない。ずっと「何者」に縛られて、自分を見失ってしまうのは、完全に本末転倒だ。

「何者」かにこだわるよりも、「どんな生き方がしたいか」のほうが、よっぽど大切だと思う。自分が何者であるかなんてはっきり言ってどうでもいいし、それよりも大切なのは日々を楽しく生きるために、何をしていくかを真剣に考え、それを実行に移すことだと思う。

そして、自分が何者かであるかよりも。どんな人間かを語れる人間でありたい。

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