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そして、鳴り響く音に襲われた

あれはたしかに騒音だった。時刻は朝の8時。日曜にも関わらず、近所で開催されている秋祭りのだんじりの音に叩き起こされた。昨日は深夜まで仕事をしていたため、体の疲れがほとんど抜けていない。

iPhoneを開くと、たくさんの通知が僕を襲ってきた。今日は何かに襲われる日なのかもしれない。そう考えると、今日を早く終わらせたいと思ってきた。今日は仕事を休むつもりだったのだけれど、仕事の進捗が思ったよりも捗っていないため、休日を返上することにした。

その傍らで、一緒に住む猫が餌をくれと鳴いている。餌の容器に目をやると、餌がなくなっていたため、台所に行って、餌を入れてやった、すると、猫は餌の近くに行き、匂いを嗅ぐだけかいで、どこかへ行ってしまった。

一緒に住む猫は僕に似ている。いま餌が欲しいわけではなく、自餌があるという事実に安心するわけだ。よく深夜にポテチを食べたくなって、コンビニに行きはするものの、買ったことに満足して、食べることを忘れるなんてことが何度もある。どんなものも食べるタイミングは自分で決めたい。朝だから食べるではなく、お腹が空いたから食べるといった感じだ。大変身勝手だと思うし、飼い主のそんなところを似なくてもいいのにとも思う。一緒に住む猫の本心はわからないけれど、きっと僕と同じ考えを持っているはずだ。

ダラダラと過ごす猫を見て、1日だけでもいいから代わってほしいと何度も願ったことがある。もしも猫と入れ替わったらどんなことをするかを考える。きっと1日の大半を寝て過ごす。適当な時間に起きて、飼い主の元に行って、喉元を撫でろと急かしている図が容易に想像できる。なんて、ありえもしないもしもを妄想してみたものの、現実はそんなに甘くないと我に帰るだけだった。

ご飯を食べて、MacBookを開ける。そこにもたくさんの通知があり、またしても僕は襲われた。平凡な日々とは一体どんな日々を指すのか。それすらもわからない。休日に猫がいて、仕事をする生活は平凡なのかもしれないけれど、仕事さえなかったら100点と思ってしまう僕はたぶん高望みをし過ぎている。

だんじりの音とともに子どもたちの掛け声が家中に鳴り響く。猫は気に留めず、僕の膝の上ですやすやと眠りについているようだ。僕は普段はラジオを聴きながら仕事をしているんだけれど、子どもたちが精いっぱい頑張っている音を聞いて、自分を鼓舞しようと、ラジオをかけずに仕事をすることにした。

なぜだろうか。朝はあれだけうざったかった音をいまは自分を鼓舞するために聞いている。音は聞くシーンによって、心地よさが変わってしまうのかもしれない。もう少し寝たいと思っているときは騒音だと感じるのに、日中や夜は騒音ではなく、心地よい音として捉えているから不思議だ。そして、人間の身勝手さをあらためて思い知るいいきっかけにもなった。

街にはだんじりの音が鳴り響いている。ふとiPhoneを見ると、たくさんの通知が僕を襲ってきた。たくさんの音に襲われるのは孤独ではない証明である。そう解釈すると、安心したのか、猫と一緒にお昼寝をしてしまっていた。きっとこの先も目の前で起きた出来事を、都合のいいように解釈して生きていく。それが生きやすさに繋がったらいい。なんてことを考えている。

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