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何者にもなれなかった君へ

何者かになりたくて、必死にもがいた学生時代。でも何者かになんてなれやしなくて、自分は自分にしかなれない。そんな当たり前の事実に気づかず、ただがむしゃらに生きることに必死だった。

頑張ってる感を滲み出すために、頑張っている自分を装って、周りに何かを宣言ばかりしていたあの頃。どんなことも3日ももたず、いつしか宣言自体が闇のなかへ葬り去られていた。

自分なりには頑張っているつもりでも、その姿が他人にどう写るかはわからない。評価を下すのはいつも他人で、他人の評価にいつも捉われている自分がいた。

自己啓発本を読み漁り、そこで得た学びをアウトプットする。まるで水を得た魚のように、培った知識をみるみるスポンジのように吸収していった。

でも一度絞ってしまえば、培った知識も無に帰すだけ。「鉄は熱いうちに打て」とは上手く言ったもので、冷めきった鉄はいくら打ち続けても、いっこうに丈夫にはならなかった。

自己啓発本を読むようになり、ある共通点に気が付いた。それはほとんどの自己啓発本が「人生は自分次第」と書いてあるということ。そして、自分が何者かになる方法は記載されていないとふと気づいて、はっとしたじぶんがいた。

「人生は自分次第」

そんな当たり前のことは百も承知の上だ。でもそんな当たり前のことに気づかずに、自己啓発本に陶酔していた自分があまりにも滑稽に思えた。頼りにしていた自己啓発本では、何者にもなれない。

では次に「何者かになるためにはどうする?」と考えた結果、行動を起こすと決めた。

人とは違った就活がしたいとストライプのシャツに水玉のネクタイで、会場へと足を運ぶ。見てくれだけは一人前風だったが、肝心の中身は空っぽのまま。

自分とは年の差があまりない社会人にまんまと怯える。吐き出す言葉に力はなく、自信のない自分をさらけ出すばかりだった。

嘘と建前。それだけが自分の正義で、やりたいことなんてそっちのけ。誰かに認められたくて、何者かになろうとしていた自分が滑稽に思える。

就活だけじゃ物足りず、就活後もせっせとセミナーやイベントに足を運び、話を聞いただけで「自分もあの人のようになれるんじゃないかな」と希望を持つ。ところが3日もたてば、ありがたいお話を忘れていつも通りの日常に戻るだけ。またしても鉄は熱いうちに打たれず、丈夫にならなかった。

またしても同じことの繰り返し。以前の失敗から何も学んでいなかったし、いろんなことを学んでいる自分にただ陶酔しているだけだった。

行動しているつもりの自分に溺れ、行動だけが世の中を変えると勘違いしていた。付加価値のない自分がいくら行動したところで、進むスピードは亀ぐらいの速さにしかならない。中身が伴ってこその行動だと気づいたのは社会人になってからのことだった。

鈍行の電車に乗ってのらりくらりと行こうか。でも残された時間はあと少し。焦りと不安ばかりが募り、何者にもなれない自分に嫌気が差す。

なにもかもわからなくなって、途方に暮れる。途方に暮れて、前向きになっての繰り返し。ちっとも成長せず、まだ何者かになることを諦めきれない自分がいた。

社会人になって気づいたことは自分は自分以外にしかなれないということ。成功者のやり方をいくら真似たところで、当時の身の回りの環境も世の中の流れも違うから、いつかどこかで頭打ちになる。

確かに守破離は大事だ。どんな物事にも基本の型があって、そこから逸脱してしまうと、途端に成功率が低くなってしまう。参考にするのは自由だが、自己啓発本が必ずしも答えを導いてくれるとは思えない。

だからこそ自分の頭でしっかりと考えなきゃ駄目だし、行動を起こす必要だってある。自分に中身が伴ってきているかはわからないけど、学生時代と比較すると、確実に中身は伴ってきているって自負ならあるし、そうでなければいけない。

自分の人生の答えは自己啓発本には載ってないし、自分で人生の筋書きを勝手に決めてしまえばいい。そして、出来るだけ筋書き通りに進むように、やるべきことをきちんとやる。

もしも筋書き通りにいかなったとしても、すぐさま軌道修正して、ベストになるように試行錯誤すればいい。物語の筋書きが上手くいかないから、悔し涙が流れるし、上手くいくから笑えるようになる。

何かをやる上で喜怒哀楽は欠かせない。だからこそ喜怒哀楽を愛せるようになろう。

そして、自分ならできるはずだって根拠のない自信をいつまでも持っていたい。

どれだけもがこうと、自分以外の何者にもなれないし、自分は自分の人生しか生きれない。そして、自分の人生は自分のものだ。誰もあなたの人生は生きれないんだよ。

もう何者かになる必要もないから僕は僕の人生を生き切ってみせるよ。




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