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オランダ移住を断念した理由(から人間の思考力について考える)

昨年9月、10日間ほどオランダへ行きました。家族3人で、半分は遊び、半分は学びのつもりで、いくつかの小学校も見学させてもらいました。妻の友人や、友人の友人など、向こうで暮らしている方々ともお話しする機会をいただき、割と具体的に移住可能性も検討しました。

そして、結果的に移住は断念しました。
たまたま昨日、妻と久しぶりにこの話になったので、今日はオランダ移住を断念した理由についてnoteを書きます。


オランダ、基本的に大好きです。チューリップや風車には全然触れてません。

少し調べるとわかりますが、ビザの取りやすさは世界随一です。家賃は高めですが、アムステルダムを避ければ許容範囲です。ちなみに行く前はアムステルダムくらいしかイメージもなかったのですが、行ってみるとアムステルダムより、僕らはハーグやロッテルダムを好みました。物価もさほど高すぎず、スーパーでの買い物は日本より安く感じました。特に果物、肉、乳製品全般、そしてビールとワインは安いです。

公用語はオランダ語ですが、街中で英語が通じます。郊外はわかりません。とにかく移民が多い国です。日本人が多いわけではないですが、観光客ではないであろう、たくさんの人種を日常的に見かけました。

クレジットカードの普及率が微妙ですが、住んでしまえば、現地で普及しているデビットカードが使えるので、それは問題ないと思います。公共交通も多く、電車、トラム、バスの使い勝手は悪くありません。自転車用道路の整備が行き届いており、住んだらまちがいなく多用するでしょう。

新しいものへの適応が凄まじいです。ドラッグもそうですが、売春、安楽死、同性婚、ナイトエコノミー、難民受け入れetc。国王の戴冠のお祝いで、ごりごりのEDMで、国民が踊り狂ってましたからね。
どうやったらこれらの合意形成ができるのか、行政が動くのか、政治が決断できるのか、まだ全然わからないです。独裁国家でもないオランダでこれらが実現できているのはちょっとすごいことだと思っています。

加えて僕の場合は、今の仕事を滞りなく継続できそうなんです。コロナ前からオンライン中心でしたし、コロナでほぼ100%オンラインになっても、大きな支障は出ていません。たまにオフラインは必要ですが、移住を止める頻度ではありません。時差も、高校生と1on1するのにちょうどいい夕方から夜にかけての時間帯がオランダだと日中の時間帯で、むしろ日本よりはたらきやすいかもしれないと思ったくらいでした。実際に1on1も中止することなくオランダ旅行しました。


そして、何より僕が移住を検討した理由は、教育です。100年以上前に憲法で「教育の自由」が保証されていて、多種多様な公立校が存在します。正確にいうと民立民営でも、一定の基準をクリアすれば公立扱いになり、利用者の学費負担もゼロになるという制度です。これに該当しない「完全私立」もありますが、数は本当に少ないです。多様な学校の設立が許されているので、現代にあった新しい教育も、従来型も、特定の宗教に偏ったものもあります。同じ地域にそれらがあるので、選べるんです。テキストや給食代も含めて、小学校は無料だったと思います。

実際にいくつかの小学校を見学させてもらいました。当時のFacebookから少し引用します。

オランダの教育は、事前は「個」を尊重するイメージが強かったのですが、それ以上に「work together」「live together」を重視する印象を強く受けました。それは学びの過程としてだけではなく、人間像・社会像の目標でもあります。もちろん「together」はいろんな意味を包含します、例えば日本で見られる「同調」的な意味は感じませんでしたが、一方で「違いを尊重する・活用する」的な意味は強く感じました。ここでいう「違い」は、国籍や民族や性的嗜好だけでなく、人間ひとりひとり全員違うみたいなレベルでの「違い」にまで及んでいます。

ロッテルダム郊外のイエナプランを実践する小学校では、実際に世界中の教育機関を調べて、結論としてオランダに移住された日本人にも出会いました。既に強い市民権を得ているモンテッソーリも、聞いたことなかったノールトウェイク発祥の新しい考え方も、現場を見て、先生方の話を聞いても、期待を裏切られることもなく、これらが共存していて選べる環境をとてもうらやましく思いました。


それでもオランダに行かないと結論に至った理由。

一番の理由は「言語」です。いや、わからないですよ? でも不安があったんです。今3歳の娘の基盤となる母語が形成されないんじゃないかという不安です。学校ではオランダ語を使用し、英語を学び、家庭では日本語を使う。この環境によって、言語的な礎を築くことができるのかという不安です。

何語でもいいんですが、言語的基盤が形成されないと、思考基盤が育たないように感じたんです。これは実体験をもってです。例えば、日本語が流暢な、母語が異なる方がいらっしゃるとします。十分に流暢なんですが、話していると、かつて採用面接でよく感じていた感触を思い出すんです。端的にいえば「思考の弱さ」です。論理的・批判的な思考能力であったり、聞かれたことに答える能力です。

母語が日本語であれば、同じ状況で「思考力」を疑うしかないんです。しかし、母語が異なる場合、その状況下では「"日本語での"思考力」(≠その人自身の思考力)を疑える余地が残ります。

思考は言葉に紐づく。考えるときに、言葉を伴って考えるので、言葉が足りないと考えるのも深まらないのではないかと思います。従って、何か1つの言語が母語となり、強い基盤をつくれるのであれば、〇〇語での思考力が弱かったとしても、時間がかかっても母語との変換さえちゃんとできさえすれば良いとも言えるのかもしれません(ちなみにこの「変換」は多少時間がかかるので、もし母語が日本語じゃないコミュニケーション相手がいる場合は、少し待つことを心がけるといい気がしてます)。いずれにしても、母語は不可欠なんです。

そういう点では、英語が公用語の国だったらちょっと悩んだかもしれません。まだ2つなので。

もちろん僕は言語や思考の専門家ではないので、学問的な指摘はあるかもしれません。あくまで経験に基づいた考察なので、ぜひご教示いただければとても嬉しいです。


* * *

本当にそうか? という疑問を、書くことでより強く感じるようになりました。noteを書くと関心が高まります。進展あればまた書きます。

今日もありがとうございました。
高校生は今日から学校再開だったりします。新たな学年で、新たな日常を、心から楽しんでほしいな。

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