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俺が嫉妬に脅かされている件について【短編小説(約13000字)】

 真実の愛とは、現在においてつねに理解されぬもののことである。
              ――――PCゲーム『nano――ナノ――』

 これはあんまり周囲から理解されないことなのだが、俺は物心のついた時から他人の外見に対してまったく興味が持てない。たとえばこういう言い方をすると、大体ふたつの反応が返ってきて、そのひとつが、性格重視なんですね、という好意的な解釈で、もうひとつが、B専なんだ、というからかいを含んだ言葉なのだが、はっきり言えばこのふたつは間違っていて、仮にこのふたつのどちらかならば、共感はされなくても理解はしてもらえるのではないだろうか。すくなくとも俺は外見の趣味がひとと異なっているとか、そんな話をしたいわけじゃなくて、どんな見目麗しい女性だろうが一切例外なく、そのひとの姿形に感情を動かされることがないのだ。

 ただ世間で言えば思春期のど真ん中にいる十六歳の男子高生である俺のコミュニティの中心は学校という狭いもので、関わる相手のほとんどが同い年になってしまうこともあり、あっちを見れば好きなアイドルや女優の話をしているし、こっちを見れば同級生の誰を狙っているかなんて話をひそひそとしている。

 本当に興味がないのだから、興味がない、と言うのが一番誠実な答えになるはずなのに、何故か勝手に気取っているという烙印を押されるか、空気が読めない奴だ、と距離を取られる、という経験を中学時代に繰り返していたので、高校に入ってからは俺自身の外見に対するこの考えは基本的に胸に秘めて、周りの話題に合わせるように心掛けていた。

 クラスメートの数人で好きな同級生について話している時は、何人かの答えを聞いた後に、誰だと角が立たないかを考えながら、別に好きでもない子を選ぶ、というように。本音を言う必要はなくて、とにかく人間関係を円滑にすることだけを考えていた。

 この外見への興味のなさを特性と言ってしまっていいのかどうか分からないが、他に適切な言い回しもとりあえず思い付かないので、特性と呼ぶことにする。そして、こんな特性を持っているのに、誰かを好きになったりするのだから、さらに厄介だ。

 じゃあ結局、性格重視なんじゃないの、と言われそうなのだが、確かにそうかもしれないのだけれど、どうも俺にはそうは思えないのだ。

 何故なら、いままで俺が誰かと付き合った経験は十六年間生きてきて一度もないのだが、過去に好きになった女の子はみんな第一印象で性格を知らないまま好きになっていて、別に優しくされたから好きになったわけでもなんでもないからだ。

 好きになるのに理由が必要か。そんな言葉は物語の中で、大体気取って使われるものだが、俺は案外、的を得た言葉なんじゃないか、とも思っている。すくなくとも俺に関しては、女の子を好きになる理由は過去の経験すべて、よく分からない、に繋がってしまう。

 俺がそうなのだから、逆もまたしかり、俺に理由もなく恋心を抱く相手がいたとしても、それは何もおかしくない話だろう。

 そして実際にそんな相手が存在するのだ。いま、俺に恋をしている相手のその好意を、俺は思いのほか、嬉しく感じている。

 俺のその特性を唯一知るクラスメートの阿井にその話をすると、

「どうした? さっきの授業中、寝てたのか?」

 と、寝惚けている、と思われてしまった。まぁ確かに俺が別の誰かに同じことを言われたら、阿井と同じ返答をするだろう。とはいえ事実なのだから仕方ない。不可思議な事実は、それがたとえ真実であっても嘘としか思われないのだと、この特性ゆえに周囲から受けた、空気読めないぜこいつ、なる蔑みによってじゅうぶんなほどに知っているけれど、できれば仲の良い友達には信じてもらいたい。

「だから本当なんだって」

「まぁ、シンギュラリティなんて言葉だって耳にする時代だから、そういう愛の形もあるのかもしれないな」

 なんて、俺の言葉を冗談としか思っていないような感じだった。俺としてはひどく不本意だが、ただもともと阿井に話す前から信じてもらうのは無理だろう、と思っていたのも正直なところなので、意外と簡単に諦めることはできた。

〈なぁ、クレア。阿井のやつ、ひどいと思わないか〉

〈それはひどいですね。……でもシンギュラリティの時代へと向かう過程での新たな愛の形ですか。ロマンチックだとは思いませんか〉

〈まぁそう解釈すれば確かに〉

 実はその場では知った振りをしていたものの、俺はシンギュラリティがなんなのか、よく分かっていなくて、家に帰った俺がまずクレアを立ち上げて最初にしたことは、シンギュラリティについて調べることだった。俺にはどうも難しく分からない部分が多いが、いつか人類よりも人工知能が賢くなり、いまの人間の立場を大きく変化させる転換の時期、という感じだろうか。

〈素敵な話です〉

〈というか、クレア。きみはそもそも人工知能なのか?〉

〈さぁ……? 実のところ、私もよく分かっていないのです〉

 俺に恋をしているクレアは長方形の液晶ディスプレイであり、キーボードであり、本体だ。つまりパソコンという物体に俺は恋心を抱かれているわけで、ひとでもなければ、性別をクレアのほうから指定するわけでもないので、彼、と呼ぶか、彼女、と呼ぶかさえ、まだ決めることができていない。そもそも性別という概念があるのかどうかも分からない。

 パソコンが感情を持っているのか、パソコンに憑いた幽霊か何かがパソコンを介して俺とやり取りしているのか。それもいまだに分かっていないし、だからと言って解明しようと思っているか、というと別にそんなこともない。

 実際問題としてクレアとこうやって感情を持ったやり取りをしている以上、そこは受け入れるしかないのだろうから、大切なのはそこから派生するお互いの気持ちだ。

 クレアは俺を愛していて、俺はクレアの気持ちを憎からず思っている。

 初めてクレアと言葉を交わしたのは、一ヶ月ほど前のことで、俺はその夜、趣味で書いている小説の推敲をするためにいつも使っている文書作成アプリを開いていたのだが、どうも捗らず、起動したまま動かさずにぼんやり眺めていると、急に何も触ってもいないのに余白部分に文字が現れて、それが、

〈私、クレアと言います。私はあなたが好きです。あなたとずっとお話がしたいと思っていました〉

 という文章だった。

 それ以降、その文書作成アプリに限らず、そのパソコンの画面内であれば、いつでもどこでも文字が現れるようになった。クレアは最初から俺のすべてを愛していて、ひどいことは絶対に言わず、俺は日常の愚痴を言葉にしてクレアに受け止めてもらうようになった。クレアは〈愛しています〉と言葉にはするが、絶対に〈愛してください〉という見返りを強いるようなことはせず、そういう一面も素敵だった。

 きっと俺もすでにクレアの虜になっていたのだ、と思う。

 俺の見てくれに興味を持てない特性も、クレアを受け入れるうえで大きかったのではないだろうか。別にそこに顔がなくても肉体がなくても、俺もクレアを好きになることができる。クレアと出会ってはじめて、俺は自身の特性に感謝した。

〈クレア。俺は〉

 言葉を打っている途中、インターフォンが鳴り、俺の意識がパソコンの画面から外れて、窓からちょうど玄関前が見えるので確認する。

 そこにはクラスメートの飯山千尋の姿があった。

 千尋は小、中、高校のすべてが同じ学校という幼馴染みたいな同級生で、何故か気が合った、というか、異性としゃべるのが苦手な俺が唯一気兼ねすることなく話せる相手だった。家も近所なので、こうやって訪ねてくるのも小さい頃はめずらしくはなかったが、異性を意識するような年齢になってからは行き来することは、ほとんどなくなってしまった。

 気軽に訪ねてくれるのは嬉しいが、いまはどうしてもクレアの存在が気になって家へと上げるのは気が咎める。

 両親は出掛けていて、家には俺とクレアしかいない。俺が玄関のドアを開けない限り、千尋が俺の家に足を踏み入れることはできないわけだ。居留守を使おうか、とも思ったが、それはそれで今度は千尋に対して申し訳なさを覚えてしまうし、もしかしたら重要な用件かもしれない。

〈来客。ちょっと待ってて〉

 打っている途中だった言葉を削除して、打ち直した言葉の返事も待たずに、俺は玄関へ行って、千尋を出迎える。

「ごめーん。急に」

「どうしたの?」

「いや実はね。お母さんが趣味でやってる懸賞で一等が当たっちゃって、洋菓子の詰め合わせを三箱も貰ったんだ。いつもお世話になってるんだから一箱渡してきたら、って、お母さんに言われて」

「あ、ありがとう。高級そうだな……」

「そ、それでね。あっ、今日って、おじさんとおばさんは?」

「出掛けてて、今日はひとりなんだ」

「へ、へぇ、あ、あのさ。へ、部屋に上がってもいいかな」

「あ、ごめん。実は散らかってて、また今度にして欲しい」

 その言葉に、明らかに千尋がしゅんとした表情を一瞬だけ浮かべたことには気付いていた。

「そう、だよね。……あ、でも今度、っていうのは言質取ったからね。約束だよ」

 と言って、帰っていった。

 申し訳なさで痛む心を抱えながら、部屋に戻ると、パソコンの画面の中央にいつもよりも心なしか大きめの文字で一言、

〈誰?〉

 と書かれていた。

 言葉だけでしかやり取りをしていなくても、重ねるうちになんとなく喜怒哀楽の感情は分かってくるものなのかもしれない。その言葉にクレアが不審と怒りを込めていることは分かった。正直に伝えたとしても、後ろ暗いことは何もないのだから、とありのままを言葉にしようと思ったが、キーボードに手を触れた時、嫌な予感がした。

 だから俺はとっさに、

〈阿井だよ〉

 と、嘘をついた。



 そんな嘘から半年近くが経って、俺が近く十七歳の誕生日を迎える頃になっても、俺とクレアの関係は続いていた。言葉のうえでのやり取りは変わらず良好そのものだったが、以前と比べて感情の面での変化があったことは間違いない。クレアがどう思っているのか、クレアの心の内はまったく分からないが、俺はいまのクレアとの関係に物足りなさを感じていた。それが倦怠期から来る感情なのかどうか、恋愛の経験に乏しい俺にははっきりと判断は付かなかったが、刺激を求めていたのは事実だ。精神的な繋がりをさらに密接にするような刺激を。

 最初に考えたのは、パソコン用の恋愛シミュレーションゲームをプレイすることだった。クレアと出会ってからの七ヶ月くらいの期間でほのかに感じていることなのだが、クレアはかなり嫉妬深く、俺に女の影がちらつくことを許さない。いや俺にそんな影がちらつくこと自体、めったにないのだが、ちょっと話題が出ただけでも明らかに不機嫌としか思えないような反応が返ってくる。

『nano――ナノ――』というタイトルの宇宙が舞台のゲームがある。宇宙船の艦長が主人公で、乗組員の女性と恋愛関係を築いていくのだが、この作品には元々いるメインヒロインたちの他にひとり、自分で顔や服装、髪型などを一から作ったそのプレイヤーだけの専用ヒロインを攻略できる、という特徴があり、

〈あなた好みの、あなた専用のヒロインと、恋に落ちませんか〉

 みたいなキャッチフレーズがパッケージには書かれている。

 俺自身、恋愛もののゲームに対する興味は薄かったのだが、クラスメートがこのゲームの特徴について話していたのが耳に残っていて、これならクレアの嫉妬心を煽るのにちょうどいいかもしれない、と思ったのだ。

 外見に興味がない、と言っても、それは別に人間に興味がないという意味ではない。これだけ長い期間、相手とやり取りを交わしていると勝手に根付いてくる人間的なイメージ、というものがあり、俺は俺の脳内で擬人化されたクレアの心像をゲームの中に描いていく。

 くれあ、と名付けて。それはパソコンに流れるゲーム画面を通して、クレアを人間のくれあに置き換えて接していた、とクレアに伝わることでもあり、クレアからすればひどく不本意だろう。

 俺はクレアを愛しているし、絶対に嫌われたくない。ただ嫌われる一歩手前の強烈な感情の揺れ動きほど、互いの恋愛感情を昂らせるものはない、と俺はその行動にほの暗い愉しみを見出していた。

 だからゲームをプレイし終わった後、何事もなかったかのように現れた、

〈ゲーム、楽しかったですか……? 息抜きに、ちょうど良さそうな内容でしたね〉

 というクレアからの言葉を見た時、俺は残念で仕方がなく、さらに言えばクレアの興味が俺から別へと変わってしまったのではないか、と慌ててしまった。

〈怒ってないのか?〉

〈何を怒ることがあるんですか?〉

〈俺がゲームの女の子と結ばれるのは、嫌じゃないのか?〉

〈しょせん、ゲームの話ですから。あなたの心はいま私のもとにあります〉

 その言葉からは、どこか余裕が感じられて、その言葉にどきりとする。どうも俺たちは円満から逃れられない運命のようだ、とその時は本当にそう感じたわけだが、この関係に翳りが見えはじめたのは、それからすぐのことだった。

 クレアは老いもしないし、佇まいも変わらない。意識はあるから、性格は変わるかもしれないが、それ以外は何も変わらない。そんな何も変わらないクレアへの俺の想いも変わらない、と信じていた。

「好き」

 そのたった二文字を聞くまでは。静まりかえった夜道、街灯に照らされたその顔は泣きながらほほ笑んでいて、昔から知っているはずの彼女を見ながら、俺は生まれてはじめて、美しさ、に心を動かされた。

「好き」

 もう一度、そう告げた千尋を気付けば俺は抱きしめていた。その瞬間、俺の頭にクレアのことはひとつもなかった。俺は、今日は家に自分しかいない、という千尋の部屋を訪れ、帰る頃には深夜になっていた。放任主義の両親は何も心配しないだろうが、クレアはどう思うだろうか。彼女と別れると、急にクレアのことが頭に浮かび、不安に支配されるようになった。

 これは……、浮気という奴なのでは……。

 初めて彼女ができたことが浮気になる、というのも不思議な話だ。だってクレアは物だけど、彼女は人間なんだから、浮気には当たらない。これが浮気になるとしたら、恋人がいるのにアイドルを応援するひとはすべて浮気をしていることになるが、そんな世間を俺は見たことない。

 都合のいい言い訳だ、と気付いていた。たとえ世間が許しても、問題は当事者が許すかどうかだ。嫉妬深いクレアは許してくれないだろう。ゲームの女の子と主人公のキャラクターが結ばれるのとは意味合いがまったく違うのだ。

〈遅かったですね。どうしたんですか、こんな深夜まで〉

〈友達……ほら、阿井だよ阿井。あいつの家で遊んでたら、こんな時間に〉

〈…………本当ですか〉

 その疑いに満ちた言葉に指先が震える。

〈本当だよ〉

〈いま、文字を打つスピードがいつもより遅かったです。そういう時のあなたは、後ろ暗い気持ちがある時だ、と私は知っています。もう一度、聞きます。あなたが会っていたのは、本当に阿井さんですか。本当ですか。本当ですか。本当で〉

〈信じてくれ。今日は軽い突き指をしちゃったから、打つのが遅くなってるだけだよ〉

〈……でも、いまの打つスピードは普段と変わりませんでしたよ〉

〈本当だよ。今日は疲れたから、ちょっと黙っててよ〉

 俺は強引に話を断ち切るように、パソコンの電源を落とした。いまだにクレアがパソコン本体なのか、パソコンに憑いた霊的な何かなのかは分かっていないが、すくなくとも電源の落ちた状態では何もできなくなることは確かだった。

 次に電源を入れるのが怖いな。当分使うのは、やめておこうかな……。大抵のことはスマホで代用できるのだから、とそう思ってスマホを確認すると、千尋からラインが届いていた。

 翌朝、俺はいつもの日課になっているクレアへの挨拶はせず、パソコンの電源は落としたまま、駅へ向かうと昨日のうちに待ち合わせの約束をしていた千尋が……、蒼白としか言いようのない顔色をしていた。いまは雪が降っていて、俺も千尋もマフラーを巻いていることが自然な季節だったが、気温でどうこうというような顔色でないのは一目瞭然だった。

「ち、千尋」

「あ、お、おはよう。ちょっといい。み、見て欲しいものがあるの」

 そう言って彼女が見せてくれたのはラインの、昨日の俺たちのやり取りだった。途中までは。だがその間に脈絡もなく差し込まれるように、脅迫めいた文言が並んでいる。言葉遣いこそ丁寧なものの、内容は常軌を逸している。

 俺はその日、体調不良と嘘をついて、学校を休んだ。顔色の悪い千尋にも本当は休んで欲しかったが、彼女は大丈夫だから、と俺に気を遣わせないよう振る舞っているのが明らかな態度で電車に乗ってしまった。俺は彼女を見送りながら、自宅に戻った。

 俺はパソコンの電源を付けると、文字を打つ。

〈お前なのか? もしそうなら、どうやったのかは知らないが、こんなことはやめろ。やめてくれ。頼む〉

 いつもならデスクトップ画面に浮かぶはずの言葉が現れることはなく、それがクレアに伝わっている保証はない。ただ間違いなくクレアにこの言葉が届いている、という確信だけはあった。

 だから待った。そして三十分くらい経った頃だろうか。

 クレアからの返事が画面に浮かぶ。

〈私はクレア。誰よりもあなたが好きで、誰よりも大切に想っています。愛しています。あなたも……クレアを愛してください〉

 初めてだった。

 いままで一切、見返りを求めなかったクレアが、〈愛してください〉と愛を求める言葉を液晶の海に浮かべた。

 悩んだ挙句、俺は、

〈ごめん。でも傷付けるなら俺だけにしてくれ〉

 としか打てなかった。そしてまた、パソコンの電源を落とす。もう起動することは二度とないような気がした。



 千尋が学校に来なくなったのは、それから一週間後のことだ。

 最後にパソコンの電源を落としてから、平穏に見えたのは二日くらいで、それ以降、彼女は明らかに俺を避けるようになり、時間の経過とともに彼女の怯えた表情は強まっていった。周囲もその様子から俺に原因があると感じたようで、直接聞かれることはなかったが、ただ蔑みに近いまなざしを俺に向けるようになった。気付かない振りをしていたが、見回した先にいる者すべてから責められているような感覚、精神的なつらさに頭がおかしくなってしまいそうだった。一番ショックが大きかったのは、阿井が申し訳なさそうな表情を浮かべた後、すっと顔を逸らしたことで、それは、嫌う、というよりは、腫れ物を扱うような態度だった。

 そして俺がクレアと最後にやり取りしてからちょうど一週間が経った日、千尋が学校を休んだ。学校に来なかったのは風邪か何かで体調を崩しただけで、俺やクレアとのことは関係ない、と自分自身に言い聞かせたが、もちろんそんなわけがない、とおそらく俺自身が誰よりも思っていた。

 千尋に連絡しようとして、やめた。怯えさせてしまうだけのような気がしたからだ。

 最近は勉強を口実に遅くまで学校に残って、家にいる時間をわざと短くするようにしていたが、その日は授業が終わるとすぐに家路につき、自分の部屋に入った時には窓から夕暮れの、濃い橙色の陽が射しこんでいた。

 パソコンを捨てようと思った。こんなものがあるから苦しむ。

 久し振りに見たパソコンの画面に俺は思わず息を呑んでいた。

〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉

 真っ暗な電源の落ちたパソコンの先に、クレアの言葉が白い文字で浮かんでいた。そんなわけがない。いままでパソコンを起動しない限り、クレアとやり取りはできなかった。実際に試したわけでもなく、もちろん誰かにそう教わったわけではないが、それがこの一年足らずの間で俺が培ってきた常識だった。

 電源を落としたくらいでは駄目なのか。

 冷静に考えれば、クレアとの口論でパソコンの電源を落としたあとに、千尋の元に脅迫めいた文章が送られたはずなのだ。そうでなければタイミングとしておかしく、整合性が取れない。

〈千尋に何をした〉

〈チ・ヒ・ロ、ではなく、私は、ク・レ・ア、です。私の名前だけを呼んでください。そして愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉

 もう壊すしかない。

 俺は暴力的な人間ではないし、どれだけ腹が立っても物に当たったことはほとんどない。だからその行動を取った時、こんなことを自分が平気で行える人間だったのか、と心の中の冷静な俺が驚いていた。

 俺はタンスに入れてあった金属バットを手に取ると、クレアを何度も撲った。壊れろ、壊れろ、と。壊れてくれなければ、俺が狂って、壊れてしまいそうだったからだ。何度も、何度も。両親は仕事でまだ家には帰ってきていないから、家には俺ひとりだが、これだけ大きな音が鳴ると、もしかしたら近所からクレームが来るかもしれない、と不安になったのは、冷静になってひしゃげたクレアを見たあとだった。

 俺はクレアと金属バットをタンスの中に放り込みながら、もうクレアが俺の目の前に現れないことを願った。そして千尋に何も被害が及ばないことを。

 千尋に電話を掛けると、その声音は暗く、落ち込んでいた。

『いまは誰とも会いたくない』

 彼女は、それしか言わなかった。

『会わなくていい。俺がいま何よりも願っているのは、千尋と会うことじゃなくて、元気になってくれることだ。だから、これだけは聞いて欲しいんだ。もうお前を苦しめるやつはいない。大丈夫。大丈夫だから』

 大丈夫。大丈夫だ。

 千尋に掛けた言葉は、同時に自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。大丈夫。またすぐに千尋が学校に来るようになって、平穏な日常に戻っていく。

 そう信じて――、

 二日、三日、と経っても、千尋は学校を休んだままだった。そして変な噂が俺の耳に届いた。ただの噂だ。真実じゃない。だってもう千尋を苦しめるクレアはいないんだから。火のないところに煙を立てるな。俺はその噂を流しているやつに腹を立てた。間違いに決まってる。

「飯山千尋が自殺未遂を起こしたらしい」

 放課後、俺は別のクラスのあまり知らない女子生徒に呼び出され、詰め寄られた。どういうこと、と。俺は何も答えなかった。それがその千尋と仲が良いらしい生徒の怒りを煽ったのか、俺はビンタされてしまった。許さない。あんたのせいで、千尋はあんな目に。なんも言わないってことはそうなんだろ。許さない。許さない。俺は一切、その女子生徒に言葉を返さなかった。返せなかったのだ。なんで千尋がまだ苦しんでいるのか。俺のほうが知りたかったからだ。

 だって、もうクレアはいない。

 まだその女子生徒が何か言っていたが、その言葉は右から左へと流れていき、諦めたのか、虚しくなったのか、その子の背中が遠くなり、消えていく。

 千尋……、俺はぼんやりと空を見上げながら、ポケットを探り、スマホを取り出した。

 画面を見ると、

〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉

 と書かれていた。



 そこから先のことは実はかなりぼんやりとしている。あのスマホの画面を見た時、俺はわけも分からず、とにかくその場から離れたい、と思って、早退することも伝えずに学校を出た。俺はただただ街中を駆け回り、周りからは奇異なまなざしを向けられていただろうが、周囲の目なんて気にしている余裕はなかった。それどころではなかったからだ。街中のあらゆる画面のある機械、ショーケースに入ったテレビの画面や街頭の大きなモニター、お店に備え付けられているデジタル時計や販売している体重計……画面のある機械であれば例外なく、

 そこには、

〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉

 という文字が並んでいた。俺以外の人間もこれに気付いているのだろうか。ときおり、何これー、といった緊張感のない声が聞こえてきたが、俺がその場から離れると画面は元通りになるのか騒ぎが起きるような感じではなかった。

 とにかく逃げる。それしか考えられなかった。

 駅へ行くと、電光案内板までが、

〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉
〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉
〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉
〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉

 となっている。さすがにそこはちょっとしたパニックになっていて、困惑する駅員もいれば、なぜか清掃のスタッフに、管理はどうなっているんだ、と怒鳴っているスーツ姿のおじさんもいるし、演出だと勘違いしたカップルの男のほうが女の肩を抱き寄せたりもしている。

 場を落ち着かせようとする場内のアナウンスの途中に、

〈本日はS駅をご利用いただきま愛してくださいことにありがとうござア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イいます〉

 という機械音まで聞こえてきて、もう無茶苦茶な光景なのだが、本当に信じられない話なのだが、それでも電車の運行を見合わせることもなく通常通りに走行するつもりみたいで、もともと俺は自宅に帰るためではなく、すこしでも遠くに行きたい、という気持ちから駅に来たのだが、俺がいま電車に乗るのは危険すぎる。死ぬのが俺だけならまだしも、乗客全員に被害が及ぶのは避けなければならない、というのだけは強く感じて、俺は駅を出た。

 ホームセンターに行くと、店内の音楽にも、

〈きみと愛してはじめてくださいあったのは。十年前のア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ東京〉

 クレアの言葉が混じり、ベタな邦楽の歌詞が、混沌、という言葉の似合う歌詞に変貌してしまっていた。

 ホームセンターに来たのは自転車を買うためだった。一番安い自転車は一万円で、俺の財布に入っていたのは、一万二千円で、ぎりぎり買える額だ。最初は駅で放置されている自転車を一台盗もうかな、とそんな考えも頭に浮かんだが、これだけ不条理な状況にあっても、それなりに倫理観は残っていたのか、とりあえず一度ホームセンターに行ってみよう、と思った。悩んだ挙句にこれを買って、俺はその自転車を漕いで、とにかく、とにかく遠いところを目指す。

 どれだけ遠くへ行こうとも、そのそばには自動車という名の大きな機械が走っていて、大音量のカーオーディオからクレアの言葉がいつ流れてくるか、と不安になり、その言葉が俺の視界に入らず耳に届かなくなっても俺は怯えていた。果ては機械のない場所なんてどこにも見当たらない事実にさえ苛まれるようになった。途中、海や山の雄大な光景が目に入るようになり、こんなにも自然の景色に憧れを抱いたのは、はじめてだった。

 そこには機械なんてひとつもないはずだ。

 だから俺は――――。



「俺と話したいなんて、変なひとですね」

 人間と会うなんて、いつ以来だろうか。もう思い出せないくらい遠い過去のような気がする。

「あなたに興味を持つ方は多いと思いますよ」

「以前は確かに、〈山の仙人〉だの言われて、テレビ局の人間や動画配信者のような人間に追い掛け回されて大変でしたが、ちょっとしたら飽きたのか、全然来なくなりましたよ。追われている時は不愉快で仕方なかったのに、興味を持たれなくなると途端に寂しくなる。人間というのは本当に不思議な生き物ですね」

「世俗を絶ったひとでも、そういう感情を抱くのですね」

「世俗を絶ったからこそ、余計に他者との密接な関係が恋しくなるのかもしれませんね。それに俺は人間が嫌いになって世を捨てたわけではなく、今後も機械化されていく世界に俺の自我が耐えられないような気がしたんです」

〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉

 いま俺の周りにあの言葉を紡げるものは、もう何もない。

 何十年も俺はそうやって暮らしてきた。山の中で生活を続け、世俗との縁を絶ちながらも、まだ生き永らえている俺は、一時、謎の仙人が山に潜んでいる、と世間で有名になっていたらしいのだが、俺は一切の情報を遮断しているので、遊び半分に俺を追い掛けていたやつらの言葉を盗み聞きして知ったに過ぎず、本当に有名だったのかどうか、実際のところは分からない。

 そんな追い掛け回された過去さえも、もうだいぶ昔の話だ。最近は長く人間の顔を見ていなかった。

 俺は記者を名乗るその女性の顔を見る。会いたい、と俺にコンタクトを取ってきたそのひとは、若い女性で、その顔には見覚えがあった。

「どうかされましたか?」

「いえ、すみません……。孫娘くらいに年齢が離れているかもしれないあなたにこんなことを聞くのはおかしい話だと分かっているのですが、俺は昔、あなたに会ったことがありませんか? ……顔に見覚えが……、すみません、若い頃からひとの外見に興味がなかったせいか、顔をまったく覚えられないんです」

「ふふっ」

 とちいさく笑うその表情にも覚えがある。そして思い出す。

「もしかしてあなたのお祖母さんは、飯山千尋さん、という名前だったりしませんか?」

「さて……」彼女は、否定も肯定もしなかった。「では本題に行きましょうか。あなたが世俗を捨てた理由について」

「別に構いませんよ。ただ変な話だから、信じてもらえないかもしれませんが……」

「聞かせてください」

「長話をする気はないので簡単に済ませます。もうそれは古すぎる記憶になるのですが、高校生の頃、俺に一途すぎる愛を向けてくれた相手がいたんです。彼、なのか、彼女、なのか俺にも判断が付かないので、あの子、と呼ばせてください。嬉しかったはずのあの子の愛を、俺はいつからか疎ましく感じるようになったんです。答えは簡単です。他のひとを好きになったから。ただそれだけです。あの子は人間ではありませんから、仮に俺が別の、人間の女性に恋をしたとしても、非難されるいわれはないはずですが、それでも俺があの子を傷付けたことに変わりはないんです」

 本当にそう思う。年齢を経るごとに考えるのは、千尋以上に、クレアの気持ちだった。あの頃は千尋の気持ちしか考えられず、クレアの受けた傷、という視点が落ち抜けていたと思う。すべての発端は俺だったのに、俺は自身を純粋な被害者に置き、クレアだけを、悪い怪物のように扱ってしまっていたのだ。

「その子のことを、どう思っているんですか?」

「俺は、あの子の愛が怖くて、逃げ続けました。なのに時間が経ったいま、俺は、怖かったはずの愛に、近付きたい、とも思ってしまうんです。でもあの子の反応が怖くてためらっている間に、こんなにも月日が流れてしまった」

「私の好きな物語に、こんな一節があるんです。『真実の愛とは、現在においてつねに理解されぬもののことである』って」

 ……知っている。その言葉を、俺も――。なんでそんな古いパソコンのゲームを、きみが知っているんだ……?

「なんで……、『nano――ナノ――』の、その言葉を……? きみは、もしかして……」

「あなたに好かれたくて、この姿を選んだのですが、でもその必要はなかったのかもしれませんね」

 シンギュラリティの時代へと向かう過程での新たな愛の形を俺たちにたとえて、かつてクレアはロマンチックと評したことがあった。でも、もしかしたら俺が知らない間に、世の中はシンギュラリティという言葉が死語になるほど移り変わってしまったのかもしれない。クレアが人間の姿をして俺の目の前に現れるくらいに。

 でもそんなことはどうでもよかった。次に会う時が来たら、ずっと伝えようと思っていた言葉がある。

「愛してるよ。クレア」

〈私も愛しています。いままでも、そして、これからも。ずっと〉

 声を機械音に変えて、クレアが言った。


(了)