自意識の檻に囚われたあなたへ贈る一冊『黄金色の祈り』西澤保彦
もしも見たくないものがあるなら眼を瞑ればいい。そうすれば何も見えなくなる。
これは自分の人生なのに。
他の誰のものでもない、この、自分自身の人生なのに。
主役を、やらせてもらえない。
折に触れて読み返す一冊の小説がある。自意識の檻に囚われそうになった時、その本はいつも私のそばにあり、その容赦のない悲痛さに、語り手の不安に、私自身の感情が千々に乱れていくのを自覚しながら、それでも読後、抱きしめたくなるほどの愛おしさを抱いている。すこし大袈裟な言い方に聞こえるかもしれないが、これは、そんな私の人生において特別な意味を持つ小説の話だ。
タイトルは『黄金色の祈り』(西澤保彦)
以前に一度、この小説の感想記事を挙げたことがあるので、今回はその時よりも内容に踏み込んだものにしたいと思っています。
※とはいえ明らかな結末のネタバレや内容の核心に触れる部分を明かさない配慮はするつもりですが、それでも事前に知らないほうが良い部分にも触れていくので、未読の方は(本当に!)ご注意ください。
僕のセルフイメージと他人の評価には、大きなズレがあるらしい――その事実に、気づき始めたのだ。
過剰な自意識、劣等感、嫉妬……負の感情として受け取られやすいこれらの感情は時には何かを成す原動力になることもあり、決して悪いと言い切れるものではないはずです。ただ、いったんそれを自覚してしまうと自分自身の心の内がひどく濁って感じられるような、そんな感覚に陥ってしまったこと、あなたはありますか? 私はあります。そしてそれは多くの人にとって無縁なものではない、とも思っています。
外に向ければ他者を、内に向ければ自身を傷付ける感情など、できるなら見たくない。臭い物に蓋をするように。だけど……、
本作では、
語り手の〈僕〉が、どこか他人事のように、だけど徹底的にその濁った自己と向き合い続けています。その淡々とした語りの中に、私自身を重ね合わせて苦しくなっていくような感覚がありました。
盗まれていたアルト・サキソフォンと白骨化された遺体が中学校の旧校舎で発見されたという新聞記事の抜粋から物語は始まる。遺体はプロで活躍するアルト・サキソフォン奏者だった松元幸一。〈僕〉は周囲から天才、と一目置かれていた彼の中学時代の同級生だった。
〈僕〉の中学、高校、アメリカ留学、英語講師、作家という立場の変遷を見ながら、著者の略歴を知っているひとなら否応なく作者自身と重ね合わせてしまう形になっていて、しかし物語が進む内にそれさえもミステリの一部として利用しているような感覚を抱き、語り手の設定も込みで、忘れがたい読後感が味わえるような作品になっています。
逃避。逃避。逃避。
なんだか、人生を象徴しているようだ。
僕の人生を。
挫折や劣等感から来る周囲への羨望が強いからこそ、〈僕〉の〈何者か〉になりたいという想いは強烈です。でもその想いの強さを私は何ひとつ嗤えませんでした。私もその感覚を知っているからです。
作家になるためにかつての友達の死を追い、その事件をモデルにミステリを書こうと決心した〈僕〉はやがて作家になり、ひとつの描いた夢は叶ったにも関わらず、その人生に悲嘆する姿はあまりにもリアルに迫ってきます。何か夢を追っているひとが、〈何のためにその夢を追うのか? 本当に進みたい道を歩いているのか?〉と問い掛け直すきっかけになるかもしれない、と思うほどに。
追い求めていたものは……
黄金色の夢。
スポットライトの中で、光の残像をふりまく黄金色のトランペット……
いつまでも追ってくる青春の影から逃げ続けてきた〈僕〉が辿りつく真実はおそらくほとんどの読者の予想を大きく超えてくるほど苦いものです。苦く、だけど明快な終わりは迎えてくれません。もちろん爽やかな余韻を残すこともありません。語り手に我が身を重ねていればいるほど、そこに掛かる精神的負荷は大きく、行き場のない感情に戸惑ってしまうはずです。
もう一度言いますが、本作は濁った自己と向き合い続ける作品で、本来それは見ずに済むなら見たくないものです。
つらく、苦しい。それにミステリ的な部分でもかなり好悪が分かれるタイプの作品だと思います。
そんなの読みたくない……?
もちろんそう考えるひともいるでしょう。読書の形はひとそれぞれです。その感情を否定する気はありません。
でも、
もしも見たくないものがあるなら眼を瞑ればいい。そうすれば何も見えなくなる。だけどその瞑った眼は大切なものまで見逃しはしないでしょうか?
とも思ってしまうのです。
自意識の檻に囚われそうになった私を救い出してくれたのは、どこまでも容赦なく感情の濁りと向き合い続けた一冊の本だったのです。影がかすかに見出したひと筋の光を際立たせてくれたのでしょうか。
良ければぜひ一度。自意識の檻に囚われたあなたへ贈りたい、そんな一冊です。